古伊万里掛花入 (著者蔵)
しばらくちょっとマニアックな骨董が続いたので、今回は古伊万里について書こうと思う。伊万里は佐賀県西部の伊万里地方で焼かれた磁器で現在も生産されているが、江戸時代に制作された作品を古伊万里と呼ぶ。しかし異論もあって、白州正子さんは「元禄時代以前の作でなければ古伊万里ではない」と書いておられる。ただそれはまあ、御維新を身近に感じることができた明治生まれの人の言葉である。
白洲さんは、祖父の樺山資紀海軍大将の思い出を書き残しておられるが、彼は天保八年(一八三七年)生まれである。御維新の時は三十二歳で、チョンマゲを結い腰に刀を差した薩摩藩の武士だった。樺山伯爵が天保時代頃に作られた伊万里を古いと感じるはずもないが、その感覚は孫の白洲さんも共有していただろう。しかし御維新から現在まで百五十年近い時間が経ってしまった。わたしたちはもう、江戸時代に作られた伊万里全般を古伊万里(古い伊万里)と呼んでいいのではないかと思う。
日本人は焼物が大好きで、約六千年前の縄文時代から焼物を作っている。ただそれは粘土を焼き固めた陶器だった。真っ白で、薄く焼けば光を通す磁器を作れるようになったのは江戸初期の十七世紀初頭からである。大雑把な言い方だが、陶器用の陶土にはカオリンと呼ばれる成分が多く含まれていなければならない。このカオリンの含有量が約七十パーセントを超えると良質の磁器になる。磁器を初めて作ったのは言うまでもなく中国人である。そもそもカオリンは、中国江西省にある高嶺山の中国語読みなのだ。高嶺山はカオリンが露出した白い山である。岩石状になったカオリンを砕いて石英や長石と混ぜ磁器用の陶土を作る。日本では伊万里地方で良質のカオリンが採掘できたのである。
日本人は縄文時代から桃山時代までは陶器を、江戸初期からはそれに加えて磁器を作り続けてきたわけだが、伊万里の生産量は群を抜いている。焼成方法が単房窯(部屋が一つしかない窯)から連房窯(傾斜地にたくさんの部屋を作り、余熱を有効利用して下から順番に焼いていく窯)に変わったこともあるが、最大の理由は伊万里が使いやすく人気があったからである。陶器は重く汚れもつきやすい。それに対して伊万里(磁器)は薄くて軽く、洗えば汚れがキレイに落ちる。誰もが伊万里を買えたわけではないが、生産量が増え価格が安くなるにつれ、中流から上流階級の人々は好んで伊万里を使うようになったのである。
伊万里の種類は驚くほど多い。先日僕は『柴田コレクション』の図録全八冊を購入した。柴田明彦・裕子夫妻が集めた日本最大の古伊万里のコレクションで、全一万三百十一点が佐賀県立九州陶磁文化館に寄贈された(国の登録有形文化財に指定されている)。素晴らしいコレクションで写真を眺めているだけで楽しいが、それと同時に伊万里はつくづく多様な焼物だなと思い知らされた。『柴田コレクション』に掲載されていない古伊万里はいくらでもある。柴田コレクションは江戸時代に焼かれた古伊万里の、代表的作品を集めたコレクションなのである。江戸期に焼かれた古伊万里をすべて網羅するのは不可能である。
ただ残っている数が多く、器形や模様も多様な古伊万里は、骨董好きにとっては親しいお友だちのような存在である。実際どこの骨董屋に行っても古伊万里が置いてある。古九谷や柿右衛門、鍋島と呼ばれる作品は、傷のない完品なら数百万から数千万円の値段が付くこともあるが、多くの骨董屋が扱うのは比較的安価な染め付け(ホワイト&ブルー)の古伊万里である。古伊万里は真贋が見分けやすく、本物に触れられる機会も多いので、格好の骨董入門品にもなる。僕が最初に買ったのも古伊万里だった。
この連載では骨董を見せるのではなく〝骨董を読む〟ことを主眼にしているが、連載を読んで下さる皆さんの中には、実際に骨董を買ってみたいとお考えになっている方もいらっしゃるかもしれない。そこで今回は、僕が持っている古伊万里の中から値段が安く、しかしちょっと珍しい作品を制作年代順に三点紹介したい。いずれも四角い古伊万里である。
古伊万里染付角形掛花入
幅五・二センチ×奥ゆき四・六センチ×高さ十八・三センチ 十七世紀末から十八世紀初頭
同、側面絵柄
裏側に丸い穴があることからわかるように、釘などを打った柱に掛けて、花を生けるための古伊万里である。側面四枚、底一枚の陶土を組み合わせて四角い形を作っているので、中を見ると篦で隙間を埋めた跡がある。茶道では床柱に釘を打ち、籠を掛けて花を生けることがある。口の部分を縄で縛った小さい陶器を釘に掛け、花入れにしたりもする。しかし茶道では基本的に磁器は使わないので、これは裕福な貴族や武士、商人が日常生活で使った花入れではないかと思う。制作時代は十七世紀末から十八世紀初頭だろう。落ち着いたマット系の白に発色しているのがこの時代の古伊万里の特徴である。
古伊万里双鳥文染付角形香油瓶
幅九・七センチ×奥ゆき四センチ×高さ一三・一センチ 江戸中期(十八世紀初頭から中頃)
同、側面絵柄
二つめは江戸後期の文化・文政期に作られた香油瓶である。江戸時代には男も女も髷を結っていた。髪をまとめるために必要不可欠だったのが香油(髪油とも呼ぶ)である。陶器は表面にまで油が染み出してしまうことがあるが、磁器は油を密封できるので、伊万里の生産が始まってから大量の香油入れが作られた。そのほとんどがずんぐりとした壺である。ただ何の模様もない白磁の小壺から、色絵で飾った香油壺まで様々な種類がある。白磁や素っ気ない模様の香油壺は主に男性用で、鮮やかな色彩で飾られた壺は女性用だったと考えられている。現代と同様、女性用の化粧品はパッケージも華やかだったのである。
この作品も側面四枚、上部(口の部分)一枚、底一枚の陶板を組み合わせて作られている。四角い器形を作るだけでも手間だが、その上四面に細かい絵が描かれている。高級化粧品のパッケージであり、裕福な上流階級の女性しか使えなかっただろう。中に入っていた香油も一級品だったはずである。白の部分は少し青みがかっているが、のっぺりとした質感である。伊万里窯が完全に軌道に乗って大量生産が始まると、このような白磁の発色になる。描かれている鳥は鴛鴦(オシドリ)だろう。いつも雌雄一対に見えることから、夫婦円満の象徴とされてきた鳥である。この香油瓶は目出度い吉祥文で装飾されているのである。
古伊万里角形酒注
縦七・四センチ×横十三・一センチ×高さ七・一センチ 江戸末期(十九世紀初頭)
同、側面絵柄
最後は幕末の天保時代頃に作られた作品である。上部には青海波と編み目文が描かれ、側面は山水文と編み目文で装飾されている。酒注としたが、はっきとした用途はわからない。硯で墨を擦る時に使う大きめの水滴だったかもしれないし、行灯用の油を入れておくための油注だったかもしれない。この作品も六枚の陶板を組み合わせて作られている。ただし模様の描き方はかなり雑である。幕末になり瀬戸などでも磁器が生産されるようになると、伊万里の粗製濫造が始まり、絵付けもだんだんダレてくるのである。陶土の質も江戸中期の作品より劣っていて、少し灰色がかっている。手慣れて完成されているが、乱雑な作りの作品は幕末に作られたと考えて良い。
この三点は江戸中期から幕末の約百五十年間ほどに作られた古伊万里だが、じっと見つめているとそれぞれの時代の特徴がわかってくるはずである。また陶器でも磁器でも、轆轤を使って茶碗や壺、皿などを作る方が作業が早い。平らな陶板を組み合わせた四角い作品は、手間がかかるので作品数が少ないのである。四角い伊万里は面白いなと思って集め始めたが、今のところこの三点しか入手できていない。ただ値段はそれほどでもなく、一番安い物で一万五千円、高い物で七万円である。それでもちょっと高いと感じられる方は多いと思うが、無理をすれば手が届く骨董だろう。丹念に探せばこの程度の変わり種の骨董は、比較的簡単に入手できるのが古伊万里の楽しさである。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
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