吉田秀和氏が「インテルメッツォ」と題するエッセイを寄せている。インテルメッツォとは間奏曲の意。間奏曲とは主となる奏者が休止している間に流れる曲のことで、これはエッセイと言っても丸谷才一氏の文化勲章受章を祝う会でのスピーチに手を入れたものだから、主奏者は丸谷才一氏ということだろう。
丸谷氏からは5分間のスピーチで、と言われたとのことだが、「で、私がやったら以下のごとき長さ!」となったとのこと。音楽の間奏曲はしかし、そもそもゆったりとした情緒に満ちたもので、主奏以上に味わいがあることもある。実際、自分などは残念ながら丸谷才一氏のファンではなく、むしろこちらのエッセイの方を楽しむ。
吉田秀和氏は、今年 (2012年) で99歳になられる。物書きは書いたものがすべてと頑張るなら、年齢は関係ない。でもまあ、つい敬語になってしまうわけですね。
もっともサブ情報として筆者の年齢を知ったところで、その年齢なりの円熟なり枯淡なりがまったく感じられなければ、何の感慨も、したがって敬意も湧いてはこない。晩年のホロヴィッツのピアノのごとくミスタッチだらけのぐたぐたな演奏でも、聴く者に深い感慨を与えるなら、正確なだけで無味乾燥なプレイよりずっといいのだから。
要するに音楽というのは、いや絵画でも小説でも何でも、心の琴線に触れさえすればいいんで、他のことはたいしたことじゃない。我々が翁の所作に感慨を覚え、ときに心洗われるのは、そのことを思い出させてくれるからに違いない。人間にとって歳をとるのは本当にいいことで、何がいいかと言うと、余計なことをする体力が失われる。失われて初めて、最後のよりどころは何なのかがやっとわかってくる、というものだ。
とは言え、吉田氏は別に、よれよれなわけではない。かと言って、やけにピンシャンしてる感じでもない。強いて言えば、変わらない。ちゃんとテンポを保っている音楽のように、普通に歳を経られている。
源氏物語の不在の一巻を補うという形で書かれた丸谷氏の『輝く日の宮』について「僕たち読者が作者の書いたもの、書かなかったものに何かをつけ加えたり、削ったりする――というよりも先にまず作者――ここまで来たら、もうロラン・バルトに従って、『書き手』と呼んでいいのでしょうが――その書き手そのものがすでに複合体、集合体にほかならないのです」と吉田氏は語る。それは文学の底層を流れる無意識であり、それ自体が音楽的でもある。「一にして多、多にして一なるものを表現するために、音楽では古くから主題と変奏という技法がございます。」
歳をとるということは、さまざまな変奏によって篩にかけられ、スコアのようにミニマムな線形の本質だけになってゆくことだろうか。その過程で彼我、性別、生死の境といったものすら曖昧模糊となってゆくなら、それらは突き詰めれば、どうでもいいこと、ということか。
丸谷才一氏の文化勲章受章を祝うといった、この上なく制度的な場において、こういった間奏曲を何の気なしに奏でてしまう。歳はとりたいものだ。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■