松浦理英子の五年ぶりの中篇「奇貨」はタイトルがまず、よかった。
主人公は四十台半ばの男だが、十歳以上年下の女性、七島と部屋をシェアして暮らしている。七島はレズビアンで、男女の仲ではない。他人に説明してもわかってはもらえないし、七島は当然のことながら、女の子の方がよかったと思っているのだが。
冒頭、互いに心に残る恨みごとを愚痴り合うところから始まる。作家である主人公はかつての身勝手な編集者に対して、七島は自分に言いよっておきながら、一度関係をもって好奇心を満足させたとたん、まるでなかったことのように振舞った女に対して。
では彼らは、完全に同性の友人同士のようかと言えば、そうでもない( かもしれない )。主人公は、七島が新しい女友達と電話していれば盗聴してみたり、あの以前の女との関係を気にかけたりもする。そんな主人公の最大のラブアフェアといえば、性感マッサージの女と結婚しようと思ったことぐらいだという。
松浦理英子は人間関係や性的嗜好について、既成の型に嵌められることに抗いつづけている作家だ。男と部屋をシェアすることで仲間から白い眼で見られかねないレズビアンと、女と暮らしながら関係を持たず(レズビアンだから持てず)、ただその女の周辺を気にかける男。彼らはどんなカテゴリーにも素直には入ってこない存在だ。レズビアンの七島が迷惑がるのは「半端ヘテロ」の女であるが、主人公がゆいいつ結婚しようとしたのは風俗嬢で、なぜか性感マッサージ。それも半端なものではある。
松浦理英子といえば、ずいぶん以前だが、社会学者の小倉千加子と争いになって週刊誌をにぎわした。同じ女性で、しかも双方とも女性同士の結びつきの中で生きてゆこうとしていて、なぜそこまで対立するのかと訝るむきもあった。( そんなぐあいに茶化すのはたいてい男で、しかも女のすることに口を出さずにいられない、いわゆる女の腐ったというタイプだが。)
あるカテゴライズの中では、確かに二人は同類かもしれない。が、小倉千加子が松浦理英子を怒らせたのは、まさにそういったステレオタイプのカテゴライズを彼女の作品に当てはめようとしたからだったと思う、確か。
分類し、理論化することは、現実の現象を整理するには役立つ。しかしそのような整理がいったい何のためのものか、あまり問われることがない気がする。
物理や化学なら、理論は同じ現象を確実に再現させるためのものだし、その再現性がまた理論を裏付けるのだろう。だけど科学以外では、ごっちゃり理屈をこねたところで、そうそう同じ現象がそっくり再現できるわけではない。とりわけ人間関係ときたら、すべてがユニーク、一期一会だ。だが理論化するのがメシの種、という人たちに好き勝手させると、自分らの都合で現実の現象を握りつぶしたりする。
文学っていうのは、そういうことを許さないためのものだと思う。分類しにくいものは理論家には邪魔ものでも、作家・松浦理英子にとっては「奇貨」なのだ。
長岡しおり
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