古井由吉特集である。まず喜ばしい。文藝は文学を志す者のサブテキストとしてもマーケティングを進めていることと思うが、ならば古井由吉について読者を教育することは「必須科目」といえる。
誰かを持ち上げるために誰かを腐すのは下品なことだ。そのようにして褒められたところで、褒められるほどの人ならば嬉しくは思わないだろう。それでもあのとき、つまり大江健三郎氏がノーベル賞を受賞したとき、多くの文学愛好家は割り切れない思いをしたのではなかろうか。
大江健三郎氏がノーベル賞に相応しくない、と言っているのではない。若い頃から才能のある、立派な作家だと思う。けれども日本で一番尊敬されている現存の作家は、と問われれば、やはり古井由吉ということになりはすまいか。
その尊敬というのは「作家として」ということで、「その文体(英語的にテキスト、フランス語的にエクリチュール)が思想そのものとなっている」という意味だ。日本語の文体と無関係のところで示される人徳とか、政治的信条とか、人類愛の思想とかは本来、文学とは関係ない。だけどそういったことが「テーマ」でないと、何も理解した気がせす、不安になる人々はいる。
まさかノーベル賞の選考委員がそれほどレベルが低いとは思えないけれど、翻訳を介して紹介するしかないアジア文学に対し、言語的であるよりはヒューマニズム、エスニックの主張としてのナショナリズムといった思想のレッテルで媒介されなくては選評もままならん、というのは十分に考えられる。
だから我々の文学への価値観、審美眼の確認としてだけでも、古井由吉特集が組まれることは喜ばしい。だがそれも確認になれば、の話だ。
文藝 夏号の古井由吉特集は残念ながら、確信から生まれる愛も、情熱も欠けている。インタビューはまあよいとして、何人かの作家たちによる論考やアンケートが通りいっぺんであり、古井文学の本質に迫ろうという熱が感じられない。持ち上げるのも「古井さんなら我慢してあげられる」という程度の態度と言えば、言い過ぎだろうか。今までに対談などの相手を務めた縁があったとしても、最良の読者であるとは限らない。もちろん作家はそれぞれ自分が一番なんだろうが、先達を真に尊敬していると言うなら、まずそれを情熱をもって読み込むことから、誰の文学的営為も始まるのではないか。
松浦寿輝氏など、その小説デビューは古井作品のコピーから始まったのだから、少なくとも古井氏に対するときぐらい自我をかなぐり捨て、そうやってデビューした自身が今日、ネズミの児童文学を書くに至った理由まで、もっと明確にしないことには、古井氏に対しても自身に対しても誠実ではない。何といっても読まされる者にとっては、何やら意味もなく偉そうな、無駄な御託が並ぶに過ぎまい。
しかし誰より熱を持つべきは、文藝編集部だろう。河出書房新社から古井由吉自選集が出るそうだが、その機会に自前で広告を打ったという程度の意識しかないなら、そもそも編集部として文学に対するどういう定見があるのか。そういった雑誌編集部を抱える出版社が、どんな経緯で古井氏の選集を刊行することになったのか、はなはだ心許ない。特集全体の通りいっぺんの責任は、結局のところ「僕ちゃんが一番」であっても責められない作家たちが負うことはできまい。編集部が舐められているだけだ。
谷輪洋一
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