釈照太さんの詩誌時評 『 No.016 角川 『俳句』 2013 年 07 月号』 をアップしましたぁ。詩作品を 2 日連続でアップしたといふことで、続けて詩誌時評をアップしたいと思います。角川 『俳句』 さんの特集は 『光り輝く!夏の季語と名句』 であります。昔々、『ホットドックプレス』 といふ若い男の子向け雑誌がありまして、定期的に 〝初めてのデート〟 や 〝初めてのセックス〟 といった通過儀礼特集を組んでいましたが、俳句雑誌の特集にもなにやらそんな雰囲気が (爆)。『季語』 や 『名句』 をキーワードにしたルーティーン特集は、売れ筋といふことなんでしょうね。
釈さんは今回のコンテンツの枕に、朝日新聞の 『岐路に立つ俳句結社』 といふ記事を取り上げておられます。ひところに比べると俳句結社は元気がないようです。で、俳句結社がなくなるかといふと、なくならないだろうな~。短歌・俳句は動かしがたい定型を基盤にしています。歌人・俳人はいつか死にますが、短歌・俳句文学は永遠に不滅であります。つまり相対的に捉えれば、すべての歌人・俳人は短歌・俳句文学存続のために結束しているわけで、結社は現世におけるその最も効率的組織だと言うこともできる。
んなことを書くと、俳人さんたちから 『俳人は個々に独立した個性を持っているんだから言い過ぎだ』 といった批判を受けそうですが、それもまあ、わかっております。しかし不肖・石川は、短歌・俳句文学には、どんなに強い作家の個性もやすやすと飲み込んでしまうアポリアがあると思うんですね。それを多くの人は 〝定型〟 とか 〝伝統〟 と呼んでいるわけです。そこをもっと考えなければ、短歌・俳句の本質には届かないんぢゃないでしょうか。
歌人・俳人は、本質的には定型派、伝統派であっていいと思います。作家の個性を飲み込んでしまう短歌・俳句文学の本質を考え抜くといふことですね。逆接的ですが、歌人・俳人の個性はそこからしか生まれてこないのではないか。短歌・俳句界の結社が外から眺めていると、なんだかな~といふ感じで映ってしまふのは、それが現世的利権のために、短歌・俳句文学の本質である定型や伝統を薄っぺらく利用しているやうに見えるからです。芭蕉存命中の蕉門を、くだらない結社だと言う俳人さんたちはいないでしょうね。芭蕉は宗匠でおっそろしく俗な現世遊泳能力を持っていましたが、彼はそれを、あくまで俳句文学の本質探究のために活用したわけです。
■ 釈照太 詩誌時評 『 No.016 角川 『俳句』 2013 年 07 月号』 ■