大野ロベルトさんの 『 『無名草子』 の内と外 ― 読み、呼び、詠み、喚ぶ ― 』 (第 008 回) をアップしましたぁ。『無名草子』 に登場する主人公の語り手なのですが、妙に存在感のない老尼について考察されています。老尼は女房たちの話には口を挟まず、どうやら狸寝入りをして聞き耳を立てているようなのですが、彼女が時折登場することで読者はより 『無名草子』 の内容に注目するといふ構造になっているようです。けっこう巧妙な小説 (物語) 叙述方法ですね。
大野さんは 『巨視的にみれば、文学テクストにおける語り手が自由に読者への呼びかけを行うのは、現代的な事象と考えられている。・・・ところが現代に近づくと、やがて文学はテクストが 「いま書かれつつある」 ということを意識するようになる。つまり、内容以前にそれを 「書く」 いう行為がすでに重要性を帯びているのであって、だからこそ、読者は 「読む」 という行為を通して積極的にテクストに参入しなければならない』 と 書いておられます。
これは作家自身と思われる語り手が作品に顔を出すということを意味しているわけでは必ずしもありません。もちろん構造から言えば、老尼などの語り手を設定したとしてもそれは作家が語っているわけです。しかし現代文学の場合、〝「書く」 いう行為〟 のうねりが語り手の揺らぎにつながっている場合が多い。大野さんはジャン・ジュネを例にしておられますが、彼は非・西洋的、あるいはポスト・モダン的作家です。物語の語り手はもちろん、それを設定した作家も全能ではない。不定形だけど一貫した物語を書くという行為が、さまざまな語り手の姿をとって現象しているわけです。
さて、大野さんの『 『無名草子』 の内と外 』 もの残るところあと二回です。大野さんの評論は、現代文学が方向性を見失いがちだからこそ、古典文学の優れた再読は意味があるなぁとつくづく考えさせられる内容になっています。不肖・石川、もそっと大野さんの評論を読みたいなぁと思う今日この頃であります。
■ 大野ロベルト 『 『無名草子』 の内と外 ― 読み、呼び、詠み、喚ぶ ― 』 (第 008 回) ■