巻頭の掌編に、瀬戸内寂聴の「わかれ」。本当に短いもので、男と女が電車の中で出会う。たまたま同じ駅で降り、女のスーツのスカートが切られていることに気づいた男は、彼女をかばうようにして歩いてやる。
妻子ある男だが、女と付き合うことになる。帰りが遅くなっても、妻は慣れっこである。男と女はともに仕事を始め、男の文才と女の行動力で、面白いようにうまくいった、とある。
やがて女は、他の女と同様に、男に離婚してくれと迫った。男には家庭を壊す気はなく、女の方から最後の晩餐を、と言い出した。何ということのない店だが、店主のはからいなのか貸切のような状態である。
男は急に、これまで過ごした時間、電話で話した時間、セックスの回数、それぞれがイッた回数を列挙する。数えてたんだと、女は笑んで涙をこぼす。と、それだけの小説だ。
これを読んだときの異和感は、たぶんそれが女性の手になるものだからだろう。短いストーリーをさらに掻いつまんでみると、この上なく凡庸な話になってしまい、その中で女が自分から最後の晩餐をと言い出す、そんな都合のいいことがあるだろうか、と。これが男性の書いたものなら、そう思って馬鹿にするに違いない。が、作家としても女性としても長いキャリアのある瀬戸内寂聴の手になるとなると、考えてしまう。
女性の人生相談などの経験も豊富な作家を想像するに、そういう都合のいい話というのは、小説としては「あり得ない」などと罵られることはあっても、事実としてはよくあるのではないか。物わかりよく、男を最後の晩餐に誘う。何のためとも知れないが、そういう女はしばしばいて、小説の登場人物と違って腹黒い復讐心もなく、特筆すべき後日談もない。日常の出来事は、そんな凡庸さに満ちている。
男女の出会いと不倫、その顛末も、最後の晩餐とやらも型通りであることしか目指してはいないもので、何かしらの固有性があるとすれば、女が着ていたスーツとか、男が惹かれた身体つきとか、さらにはそこでの関わりを示す時間数とか回数とか、そういうものでしかないかもしれない。あたかも裁判所での証言のように。
少なくとも別れる段になってみれば、男女の仲などそんなものだろう。付き合っている間はそう思えなくとも、そのときには、これまでに別れた誰彼との差異は、数字で表すのが最も適切であるかのごとき差異でしかなくなる。それを男は最初から承知していて、だから数えていたというわけだ。
女は、最初に出会ったときのスーツを仕立て直したものを着ていて、男が並べたてる数字に涙を落としてみせる。最後まで「型」にこだわろうとする女だが、男よりもウェットであるとか、未練があるとか決めつけることはできない。何のためとも知れない、凡庸な型へのこだわりが、実はすでに次のステップを踏み出している証拠、ということはある。行動力のあるキャリアウーマンのことだ。が、そのような内面については、男と女の裁判では触れる必要はない。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■