尾崎豊はすでに「純文学」であるらしい。それはいわゆる純文学作品よりも純文学らしさを身にまとっている、という意味で「純文学」なのだ。では誰が、あるいは何がそうしたのか。
生前、彼はカリスマだったが、ロックンローラーであった。苦悩しているのは想像に難くなかったが、それはああいった形でデビューした者にはついてまわるものでしかない。生身の人間として、どっかでケツまくっちゃえばよかったのだ。太って、バラエティ番組にでも出て、弛緩しているとか陰口を叩かれてでも。
尾崎豊を「純文学」にしたのは、テレビのドキュメンタリーでも小説新潮の特集でもなく、彼の死である、もちろん。彼は太って、バラエティ番組に出ることから免かれたのだ。永遠に。
ところでこれももちろんのことだが、「純文学」でない、本来の純文学作品になり得るのは、太って、バラエティ番組なんかに出て、弛緩していると陰口を叩かれなくても弛緩し切っているような、みっともなさや愚かしさの方ではある。
「卒業」の文脈で、それを担わされているのは言うまでもなく「大人たち」で、「先生あなたは かよわき大人たちの代弁者なのか」と歌われて、「この支配からの卒業」の支配とは、大人たちの支配であるらしい。それはしかし極めて安全な「支配」で、行き届いた「管理」だ。カーストに支配されているより、どれだけいいか。
実際、この反逆と大人たちへの苛立ちのテーマソングとも言うべき「卒業」を、卒業式で歌わせる中学校があるそうだ。物わかりがいいとみるか、子供の頃の純な気持ちを忘れていない教員がいるのだとみるか、あるいは子供らの抗う気持ちすらも制度の中に取り込もうとしているのだとみるかは、それぞれだ。
が、私は私の「詩学入門」の授業の発表で、学生がこの曲を取りあげるたびに言うが、「夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」という一節を卒業式で歌わせるのだけは、この中学校の管理者としての教頭先生には、容認できなかったらしい。
悩んだあげく、教頭先生の提案は「夜の校舎 窓ガラス磨いてまわった」と置き換えるのはどうだろう、というものだったそうだ。
こういうのを本当の純文学、というのだ。私はこの教頭先生に心から同情する。心ある生徒たちもそうだろう。人並み以上に感受性が強く、それゆえに知的であったはずの尾崎豊本人だって、そうに違いない。
そのように成熟してゆく資質を湛えながら、ある一時期の若い果実をもぎ取られ、そしていつも同じ果実を実らせるように要求されること。「卒業」を歌いながら、卒業することを禁じられ、卒業させる側にまわることも、またその苦労への理解を示すこともできないこと。それこそが、かよわき大人の先生なんか目じゃない、「仲間」たちからの抑圧だ。
だからいつも「卒業」を聞くたびに思うのだ、先生は。あんたもケツまくっちゃえば、本当に卒業できたのに、って。
小原眞紀子
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