「特集 The Masterpieceー私が選ぶ不朽の名作」に、小川洋子と平松洋子の W 洋子による対談「少女時代の本を読む喜び」がある。内容的には、少女時代というより子供時代の本という感じになっているが、「不朽の」というのなら、少女小説よりは児童文学に近くはなるだろう。
それでも「少女」というタイトルになったのは、女性二人の対談だからというほかに、昨今の文壇低迷の中で多少なりとも見られるのが女性作家らの作品であるが、その源泉を探ろうという意図もあるだろうか。
金魚屋カルチャーの中では「雰囲気小説」というタームが使われ始め、あっという間に浸透したのだが、小川洋子はその代表的な作家の一人だ。ほかに吉本ばなな、横綱として江國香織といったところか。吉本ばななが少女マンガを発想の源としていて、江國香織が児童文学出身であるのは知られているが、つまりは幼い頃に触れたものを価値や感受性の動かぬ基盤としているという共通点がある。
この社会の、つまるところ文学の過渡期において、男たちが何を信じてよいかわからずに右往左往している中で、幼少期の世界の見え方を忘れまいとする、それこそ子供のような彼女たちの頑なさの方が、それなりの作品を生み出し得る、というのは理解できる顛末ではある。幼少期の世界の見え方は新鮮で神秘的であり、それ自体、ひどく魅力的なのだ。その新鮮さを保つことはしかし、それほど簡単ではない。
子供にとって世界が神秘的なのは、そこに未知であり、子供にとっては不可知である部分が多く残っているからだ。したがって子供は世界構造を把握することはできない。全能の他者によって与えられた世界のアトモスフィアを感じ取ることしかできないのだ。それを十全に感知することで、よき雰囲気小説は成立する。しかしそれは世界構造の把握をむしろ拒んでいるがために、構築的プロットを持ち得ない。
雰囲気小説の最良の作家は恐らく江國香織だが、それは彼女が受けた(あるいは受けることを選んだ)キリスト教の教育がもたらしたように思える。世界の不可知の部分に、抽象的にであれ「神」の概念を措定することで、構造のない世界であっても崩壊せずに強度を保っている。
そして世の中には、そのように子供の頃に獲得した世界を感受するやり方を決して手放すまいとする女性たちが存外に多くいる、ということだ。それが雰囲気小説の読者なのであり、今の世の中ではきわめて貴重な読者として確実に見込める層、つまりは読書によってしか得られない世界に生きることを選んだ層なのだ。
各時代ごとの思潮において、本来ならば文学が抱えるべき「思想」の代わりに、そこにあるのは「子供時代に読んだ本」という、女性たちが共有している経験である。児童文学はある程度、世代を越えて読み継がれるから、完全に同世代でなくとも話はわかる。少なくとも確たる経験をもって信じられる、という意味で、現在の「不朽」はとりあえずここにしかないかもしれない。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■