■公演データ■
東京芸術劇場×キューブ共催公演
ナイロン100℃結成20周年記念企画第二弾 ナイロン100℃ side SESSION#12
『ゴドーは待たれながら』
作 いとうせいこう
演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演 大倉孝二(声の出演 野田秀樹)
主催 東京芸術劇場(公益財団法人東京都歴史文化財団) キューブ
■上演日程■
(東京)4/6〜4/14 東京芸術劇場シアターイースト
(大阪)4/21、22 ABCホール
(名古屋)4/25 テレピアホール
(仙台)5/1 仙台市民会館 小ホール
(福岡)5/3 福岡劇場 メインホール
(水戸)5/4、5 水戸芸術館ACMホール
タイトルは『ゴドーは待たれながら』。タイトルを見てわかる通りベケットの『ゴドーを待ちながら』を下敷きにした作品で、『ゴドーを待ちながら』の向こう側の作品とでもいえばいいのか、この舞台は待たれているゴドーを描いている。
NYLON100℃の看板俳優、大倉孝二の一人芝居ということで、大倉の味方のような気持ちで客席に座り、彼の芝居を観ていたが、観客一人一人の息遣い、それによって発せられるかすかな音に注意を促すような演技、演出がなされたとき、観る対象が大倉ではなく自分自身にすり替わった。
大倉演じるゴドーは薄暗く、寂れた部屋の中に一人でいる。部屋の中も全体的に灰色だが、窓から見えるかすかな景色もまた灰色。そんな中、「約束がある」「誰かが俺を待っている」「出かけなければ」「でもいつどこで誰と会うのかがわからない」「だけど約束はしたんだ」「待たれているなら出かけなければ」「しかしどこへ?」・・・・・・この繰り返しが続く。忘れてしまっている。なにもかもわからなくなってしまっている。そして心の中に消えない焦燥感と絶望だけが残る。
部屋の外へ出ようにも出られない状況が永遠に続いていることを表すように、一幕と二幕の変化もほぼない。違ったのは部屋の中の植物に実っていた赤い毒のある実がそこに “ある” か “ない” か。あまりの空腹に耐えかねてゴドーはその毒の実を食べてしまったのだろうか?いや、食べてはいないのか。その実がなくなった理由すらもうわからない。ただ、もしその実を食べてしまっていたら、ゴドーが向かう先は死である。
客観的に観ていたゴドーの姿が、そのまま自分たちにもあてはまることを、冒頭で述べた息遣いを聞かせる演技と演出が気づかせる。それまで一人の世界にいたゴドーがそっと私たちに語りかけてくるのだ。客電もかすかに灯り、その場にいた観客の姿が浮かび上がってくる。いままで観てきたのがゴドーの物語ではなく、私たち自身の物語となった瞬間だった。一連の繰り返しは決して他人事ではないと思い知らされ、客席はしんと静まりかえる。
誰が待っているのだろうか。自分が何か行動を起こすことに何の意味があるのか。もし行動を起こしたとしてそこに希望はあるのか。無意味で不条理な世界に身を置き、時間だけがやみくもに過ぎていくむなしさ。ただ死に向かい、でも希望を実感しようと手を伸ばし続けているのが人間なのかもしれない。
長い手足で縦横無尽に舞台を動き回り、身体だけでなく頭の中も動かし続けた大倉の演技は、頭で考える速度に身体がついて行っている点がまずすごい。ちょっとしたコミカルな動きや、台詞の間でくすっと笑いが起きるので、舞台が重くなりすぎず、観客の興味も途切れることがない。そこも大倉の演技の魅力。ただその裏には大倉の事を知り抜いているのだろう、演出のケラリーノ・サンドロヴィッチの姿がある。細かい動きを演出し、おそらく台詞の間なども計算の内。ひとつ、その細やかさを実感させた、大倉の動作があった。ゴドーが生活している部屋の中心には一脚の椅子が置いてあるのだが、その背もたれの一番高いところに大倉が一瞬足を乗せたのだ。「出かけなきゃ」「でもどこに?」の繰り返しで、あたふたし、部屋をうろうろ歩きながら、何を思ったのか背もたれまで足をあげ、その後、またうろうろ歩きだす。そのよくわからない動作をしてしまうゴドーの様子からは、わかりやすく混乱が見て取れた。もしかしたら大倉から自然に出てきた動きなのかもしれないが、この辺りがKERAの演出によるものなのではないかと推測する。そんなレベルの高いKERAの要求を丸ごと受けて一人舞台に立ち続ける大倉。KERAの大倉に対する抜群の信頼度をうかがい知ることもできる、充実の一人芝居。今、生きている人、みんながゴドーである。
岩見那津子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■