佐々木敦「新しい小説のために」と題された連載評論が始まっている。そこで論じられていることから炙り出されて来るものは、「ベリー文壇」というより、「ベリー群像」寄りである。
つまりは「新しい小説」ということを措定しなくてはならない事情は、本当のところ文壇にあるとは思えない。佐々木敦氏の評論でも前提とされている「今、小説が読まれていない」という事実に対して、「新しい小説」がその状況を変えることはないからだ。
新しいふうな装いを凝らせば凝らすほど、もとより多くない読者はその数を減らしてゆく。そのことは文学の業界でマーケティングを試みた誰もが経験していることだろう。文学好きという、世間で言う変わり者とは、つまりはたいてい「いわゆる文学的な」アトモスフィアへの嗜好を持った普通の人々である。
だから狙うべきは普通の、「いわゆる文学的な」アトモスフィアを纏い、ただその書き手の顔や名前や経歴、プロフィールが「新しい」感じを与える、という方向である。それこそが今の文壇、つまりは芥川賞が正しく引いている路線に他ならない。
したがって「小説が読まれていない」という現状を前提とし、それを多少なりとも打破する可能性を模索するというスタンスならば、「新しい小説」を考察するというのは、矛盾しているというほどではないにせよ、文壇的な現実からはずれている。
「小説が読まれていない」というのも、実際には「群像的小説が読まれていない」、もっと言えば「群像がまったく読まれていない」ということだと端的に認識すればしかし、「新しい小説のために」というテーマはより切迫感をもって諾なえる。
要するに人々は何か「新しい」ものを、もはや小説に求めることはなくなった、ということなのだ。小説は本来的にも後衛なのであり、その良さを味わいたいときに手にするものだ。小説の「新しさ」などタカが知れていて、本当に新しいものを求めているときに、本屋の店先で文芸誌を手に取るという行為はあり得ないではないか。
そこまで見切りながら、なお「新しい小説のために」と群像が呟くならば、それは群像という雑誌の、文壇での立ち位置からして決死の覚悟と諦念とが入り混じった美しくもある光景だし、本来はヴィジュアル文化の人である佐々木敦氏の直観とか無意識とかが、その場でその言葉を吐かせたのだとしたら感動する。
「新しい小説のために」で取り上げられ、引かれている批評は、決して新しくもない金井美恵子であったり、江藤淳であったりして、それも共感できる。御用批評を務めることでこの時代を生き延びようとするのは誰しも勝手だが、その手の自称批評家の状況的言説に振り回され、使い捨ての「新しい書き手」が登場してくるたびに「新しい小説」かもしれないと喧伝する役回りにはまるなど実際、末代までの恥だから。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■