アイデンティティというものはなかなか厄介だと思う。作品に作家固有のアイデンティティがあるのはもちろんだが、文学ジャンルにも、文芸誌にもアイデンティティはある。もちろんアイデンティティが最初からあることは稀で、それは作り上げていくものである。いったん作り上げられたアイデンティティは、程度の差はあれ、一貫性をもって維持されねばならない。そうしなければ、多様な世界の中で、ある作品やメディアが存在する意味が失われてしまうからである。
『文學界』9月号では中山智幸氏の『ピーナッツ』と北野道夫氏の『関東平野』を楽しく読んだ。『ピーナッツ』は、3人の姉を持つ末っ子で男の子の主人公が、ミステリアスな女性と知り合ってから別れるまでの小説である。女性は地震(恐らく先の東日本大震災を指すのだろう)の時の停電以来、闇が怖くて部屋の電気を消すことができなくなったと言う。主人公は女性に依頼されて、月に一度、彼女のマンションの電球を全て取り替えることになる。この話をメインとして、主人公が子供の頃に出奔して行方不明になった父親が病気で入院しているのがわかり、会いに行くという話が織り交ぜられて物語が進んでいく。
東日本大震災がテーマになっているわけではなく、闇が怖いと言う恋人の女性の謎(後に地震で停電になったというのは嘘だとわかる)も解き明かされないが、3人姉妹の末っ子で謎の女に振り回され、かつ職場の同僚の女性からもなにかにつけ鋭い突っ込みを入れられる、ほとんど女難の相を持った主人公の描写は、ライトタッチの良質の小説になっている。しかしこのタイプの小説なら『オール讀物』掲載でいいのではないかという気がしてくる。この作品は〝小説〟であり、良くも悪くもギスギスとした『文學界』的〝創作〟ではない。作品の評価は別だが、『文學界』のアイデンティティを保証する小説ではないだろう。
北野道夫氏の『関東平野』は、主人公の私と I と呼ばれる女性との関係を描いた作品である。全部で9章の断片(と言っておきます)から構成されるが、その中で I は私の子供を妊娠したとも、私が知らない男の子を産んだとも、あるいは子供は産まずに堕胎したとも書かれている。また I は生きているとも、もう死んでしまったとも読める。私と I が一時期、恐らく東京を中心とした関東平野にいて恋人同士だったことは確かだが、その関係の詳細も記述されていない。もの凄く乱暴に言えば、私と I との過去の思い出を、空想を交えて多角的に描き出した小説である。
タイトルが『関東平野』になっているのは、主人公が京都出身だと設定されているからだが、もう一つ理由がある。この作品でも東日本大震災が小道具として取り入れられていて、そこは汚染された土地だと書かれている。社会的テーマを導き出すためではない。放射能の影響は、『関東平野』が荒廃の中にあることを示すために援用されている。言い換えれば私と I の関係は茫漠とした荒廃の中にある。通常の男女関係(恋人関係)は存在せず、実際にあったこと、あり得たことが、現実的な存在の輪郭が薄い私とIとの関係性として描かれている。
つまり『関東平野』で表現されているのは、抽象化された2人の人間存在の有り様である。ある程度まで理解し合え、決して本質までは理解し合えない人間同士の関係性が描かれているとも言える。私と I は男女に設定されているが、男同士でも女同士でも同じ構造の作品になるだろう。映画の『去年マリエンバートで』のように、物語は循環・再演され続ける。『去年マリエンバートで』の原作はロブ=グリエで、彼は確か『なぜわたしの小説はつまらないのか』というエセーを書いていたと思うが、荒廃した循環・再演性を評価しなければ、『関東平野』を最後まで読み通すことはできないだろう。ここにはエクリチュールの流れしかないのである。
新作発表おめでとうございます!
「あっ、はい! そうですね!」
かなり緊張していらっしゃるようですが。(中略)
「これ以上、刺激的なことなんてないはずでしょう! とにかく人がびっくりするような派手なコスプレして、ありえないって状況でセックスするって、最高じゃないですか?」
(中略)
そんなどうでもいいAV女優のインタヴュー記事を、何度も繰り返し読んだ。
ここに何か新しい発見があることを願って、ただひたすら読んだ。だが、やはりというか、当然のように何もない。いまはただただ考えたくもない小説を書くという任務から、ひたすら距離を持つために、何の参考にもならないポルノ雑誌をコンビニで買ってきて読み耽った。
アダルトビデオから抜粋された数々の場面が、グラビア代わりに誌面に大きくされているのを眺めながら「いかに自分は小説というものに、最初から何も興味がないのか」を再確認した。
(中略)
「かつて当然のように刊行されていた大手出版社の文芸誌がぞくぞくと廃刊の危機に晒されても、仕方あるまい」
気がつくと、俺は独り言を呟いていた。
こういう雑誌は一日中眺めていても、飽きることがない。だが、それに比べて大概の文芸誌はどうだろうか? 目次に名を連ねるさえない面々を一瞬見ただけで、誰もが怒り心頭。即刻窓の外へ投げ捨ててしまいたくなるというのが多くの読者たちの本音ではないか。
(中原昌也『知的生き方教室』)
中原氏の作品は、『関東平野』よりもさらに『文學界』的小説である。まったく中原氏の言うとおりだと思う。面白い面白くないで言えば、AV女優が口にする作り話の方がたいていの純文学作品よりも人を楽しませてくれるだろう。また小説に限らないが、文学など無理をして書かなければならないものではない。書きたくなく表現することがないのなら、止めてしまえばいいのである。小説家、詩人、俳人、歌人であり続けるために書くなど馬鹿げている。
作品のタイトルになっている『知的生き方教室』は恐らく反語だろう。ただ文学(小説)や文芸誌を否定しながら、そこで新たな知性を見出すという意味での反語ではない。そういった文学(芸術)にまつわる一切の知的言説を否定するという意味での『知的生き方』を示唆している。知性を排除するための知性である。
さすがに『文學界』は度量が広い。ここまでの荒廃をさらけ出すなら、もはや小説であるかどうか、その出来がいいか悪いかは問題ではない。身も蓋もない本音が書かれているから意味がある。紙の上の染みで少しでも読者に衝撃を与えたいのなら、こういった創作こそ純文学誌にふさわしいだろう。その意味で今号で最もギスギスとした刺激的〝創作〟である。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■