「ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる――演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ。」
(ピーター・ブルック著『なにもない空間』高橋康成・喜志哲雄訳 晶文社 1971 p.7)
演劇にはいろいろの形式があるけれども、演劇なるものの必要条件となれば、「俳優」と「観客」のふたつの要素に限られます。音楽、舞台装置、台本までもが演劇行為の副産物にすぎません。舞台も、カーテンも、照明機材も、観客席も、チケットも――なにもかも削ぎ落として、最後に残った俳優と観客の間でやりとりされるもの、それを演劇と呼ぶのです。
金魚屋の演劇批評は、すべてこのシンプルな約束に基づきます。そのため、まず批評家は一観客となり、俳優と関係を結びます。観劇と呼ばれる行為です。俳優の発する音、声、動作を演劇的コトバとして聞き取り、見取り、読み取り、想像力の舞台にディクテイト(書き取り)するナマのプロセスを意識し、そのやりとりに表現されているものを批評対象とします。
言うまでもなく、観劇行為は視覚と聴覚(あるいは触覚というのもあるかもしれません)を用いる行為です。我々の観劇は、ときに俳優にまんまと騙されます。俳優を登場人物と思い込み、つかの間劇場がどこか別の時空間のように感じられることもあります。我々自身さえもが、別の時空間の住人になっている瞬間もあります。そのような状態は「幻視(イリュージョン)」と呼べましょう。
しかし金魚屋は飽くまで演劇的やりとりに注意したい。幻視的経験は我々の想像力に生起するもの。我々の批評の方法は、その想像力に至るまでの表現の過程を見つめる「醒めた観劇行為」にあります。このような状態を、「幻視」に対して「錯視」と呼ぶことにします。そして、実際に観劇した演劇を「演劇たらしめていたもの」への接触が、我々の批評の最終目標です。
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■