『月刊俳句界』10月号では、スウェーデンのノーベル文学賞詩人、トーマス・トランストロンメル氏の特集が組まれている。短詩を書く詩人で、日本の俳句からもインスピレーションを得ている。特集にはスウェーデン大使のラーシュ・ヴァリエ氏のインタビューも掲載されいてる。ヴァリエ氏は外交官であると同時に詩人・日本研究家であり、原文は英語かスウェーデン語だが俳句を書き句集も刊行しておられる。
俳句は短歌から派生した日本で最も古い文学ジャンルの一つである。短歌も俳句も時代によって様々に変化してきたが、原則として57577、575という形式を守り続けている。いわゆる前衛的な試みも行われてきたが、いつの時代でも伝統派(保守派、守旧派とも呼ばれる)が大勢を占めるジャンルであり、その意味で基盤は古代から変わらない。最も日本文化の本質を体現する文学ジャンルである。
この〝純・日本文学〟とも呼べる俳句を世界に紹介し、実作者を増やそうという運動が1980年代頃から盛んになっている。促進団体としては有馬朗人氏を会長とする国際俳句交流協会や、夏石番矢氏の世界俳句協会などがある。欧米人が俳句に注目した早い例としては、1910年代のエズラ・パウンドらによるイマジズム運動があるが、その影響は一部の文学者集団に限られていた。しかし情報や人的交流が劇的に盛んになった現代では、20世紀初頭とは比較にならないほど俳句文学への理解が進んでいるようだ。
もちろん自分のことは奥にあると思いますけど「わたしはこうだ」「こういうことを考えている」とは書かない。俳句は、写生しながらも、子規が言ったように、思想的な詩だと考えています。
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それから、アメリカの本で、日本の俳句の翻訳が載っていたのを読んだのです。最初に読んだのが、鈴木大拙の『禅と日本文化』。その中に俳句も入っていました。(中略)ポール・レップスの『禅肉、禅骨』という本にも禅と俳句の関係が書かれていたと思います。最初はそういった、いかにも日本の、ロマン的なイメージから入りました。
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スウェーデンでは、ある人が使った表現をまた使うのはダメだという考えがあります。表現を盗んだ、という考えになり、あまりよくない。そういう認識がありますから、季語中心というのは難しいかもしれません。
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僕の名前は「狼の島」という意味ですし、有名なテニス選手・ビヨン・ボルグは「熊の城」という意味です。(中略)日本と同じように自然との繋がりは深いと思います。
(ラーシュ・ヴァリエ インタビュー 『スウェーデン文学と俳句』)
ヴァリエ氏のインタビューから、俳句文学とヨーロッパ文学(文化)の共通点と相違点が示唆されている箇所を抜き出してみた。氏はイマジズムの影響を受けたアメリカ人の著作と鈴木大拙の『禅と日本文化』によって俳句を知ったと語っている。以前少し書いたが俳句は禅系の文学である。ほとんどの日本人はそれを意識しなくなっているが、密教の教義やその修行方法を知れば、密教文化が、現在大半の日本人の心的基盤になっている禅系文化といかに異質なものなのかが理解できるはずである。
乱暴に言えば密教は、その本質に秘教的神秘主義を抱えるカトリシズムと通じる側面を持っている。しかし禅は〝無本質的無神論〟であり、なおかつ世界の本質に迫る宗教である。〝有本質的有神論〟であるキリスト教と正反対の宗教なのである。そのため俳句を通して感受できる禅の思想が、かなり以前からヨーロッパ人の肉体的思想とも言えるキリスト教を相対化し得る要因として働いてきた。このような東西文化の相違は比較文化的視点に立った方が理解しやすい。
またヴァリエ氏は俳句の特徴を『自分のことは奥にあると思いますけど「わたしはこうだ」「こういうことを考えている」とは書かない』と述べている。この思考は1910年代のイマジズムの時代から一貫して存在している。俳句を〝I=私〟からの解放表現であると捉える考え方である。有本質的有神論は簡単に言えば世界の本質は在り神は実在するという思想である。この思想を突き詰めれば神に限りなく近接した人間存在・思想を理想とする考えにまで行き着く。この思考が〝I=私〟を中心とする自我意識文学を成立させたのは言うまでもない。俳句は手法的にもそれを相対化し得る要素として働いたのである。
送電線伸びる
霜の王国を越え
すべての音楽の北へ
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神様の存在
鳥の歌のトンネルのなかで
閉ざされた封印が開く
(トーマス・トランストロンメルの作品より)
トランストロンメルの作品を俳句と考えるかどうかは意見が分かれるだろう。そこには確かに従来のヨーロッパ思想・文化を相対化しようとする視線がある。ただ『霜の王国を越え/すべての音楽の北へ』という詩行には極点への指向がある。『北』はトランストロンメルの母国であるスウェーデンと、ヨーロッパ文化のさらに北というダブルミーニングだと思うが、トランストロンメルは従来のヨーロッパ文学(文化)とは異なる新たな極点を求めている。それは『神様の存在/鳥の歌のトンネルのなかで/閉ざされた封印が開く』でさらに明瞭に示唆されている。神(ある極点)は存在し、かつそれは汎神論的な『鳥の歌のトンネルのなかで』『開く』。それは今まで『閉ざされ』ていた『封印』を解くことであり、ヨーロッパ文学における新たな表現と思想の地平であるはずなのである。
ヴァリエ氏が述べているように、ヨーロッパ自我意識文学は現在でも『ある人が使った表現をまた使うのはダメだという考え』を抱えている。座の文学はそぐわない。また『自然との繋がりは深い』スウェーデン文化は、その深源をケルトなどのヨーロッパの古層的文化に持っている。それは東洋的汎神論とイコールではない。簡単に言えば、ヨーロッパは自国文化の更なる深化のために俳句などのカウンターカルチャーを活用している。
俳人たちが俳句を世界に広めようとしておられることは素晴らしいことだと思う。が、正直に言えば異和感も覚える。これも簡単に言えば、ヨーロッパにはキリスト教という思想的な軸があり、それに揺さぶりをかけることで文化を発展させてきた。最近では存在本質はなく神は存在しないと厳密に定義して、従来の思想の枠組みを組み立て直すポスト・モダニズム思想がある。ただこのポスト・モダン思想はずっとヨーロッパに内在していたのである。有本質的有神論と無本質的無神論のせめぎ合いの中で(簡単に有神論と無神論の相克と言ってもいい)、ヨーロッパは数々の優れた思想や文学作品を生み出してきた。
しかし日本人は、現在に至るまでヨーロッパ人と同じレベルで自国文化を論理言語化できていない。幽玄や侘び、寂びなどの曖昧な言葉でお茶を濁して済ませている。俳句も同様で、575に季語がある世界で一番短い詩で説明は終わりだ。せいぜい自然との調和を重視する詩であるなどの、あたりさわりのない説明を付加する程度である。
言葉は悪いが、世界で俳句人口が増えていると喜んでいる俳人の姿を見ていると、都会に品物を売りに行って、思いがけず売れ行きが良かったので小躍りしている田舎者の姿が目に浮かぶ。田舎者は商品がいいから売れたのだと思っているが、都会人は洗練された生活の中のアクセントとして、そのうら寂れた品物を愛玩しているかのようだ。俳句輸出は相互交流であるはずだが、海外からの文化受容が見えてこない。
ヨーロッパ文化の基盤は恐ろしく強固であり、それが多少の俳句の流行で変わるわけがない。これまでそうして来たように、ヨーロッパは俳句などを含む異質な文化を取り入れることで、さらなる文化的な深化を目指すだろう。かつてエコノミックアニマルと揶揄されたように、俳句人口の増加ばかりを喜んでいると、そのうち俳人たちはヨーロッパ人を招いて『俳句の本質とは何か』という講義を拝聴することになりかねないのではないかと思う。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■