『月刊俳句界』9月号では『俳人はなぜ忌日を詠むのか?』という小特集の、復本一郎氏の『忌日への関心と歳時記』が面白かった。例によって『俳句界』の意図は編集部編の『忌日俳句を詠んでみよう!』に集約されていて、エセーや論考は実践のための参考資料の位置づけである。とにかく作品を書くことに俳人たちの興味はあるらしい。別に嫌味を言っているわけではない。『俳人はなぜ忌日を詠むのか?』が問いになるなら、『俳人はなぜ作品ばかりを書きたがるのか』も設問になるだろう。一番簡単な答えは動かしがたい形式(575+季語)があるからというものである。形式に言葉を当てはめれば作品ができる。ただそれが維新以降の〝世界標準的創作要件〟を満たしているかどうかは別問題である。
本題に戻ると、復本氏は歳時記(俳諧季寄)の嚆矢である『はなひ草』(寛永13年[1636年]刊・立圃[りゅうほ]編)に、忌日がすでにいわゆる季語として掲載されていると指摘しておられる。『法然御忌』『達磨忌』『御影供』『日蓮御影講』『東福寺開山忌』などである。『毛吹草(けふきぐさ)』(正保2年[1645年]・重頼[しげより]編)にも『御忌』『達磨忌』『日蓮忌』『空也忌』『東福寺開山忌』『一向宗開山忌』『大徳寺開山忌』が記載されているそうだ。これは大変面白い指摘だと思う。
『はなひ草』以前の歳時記は今のところ確認されていないようなので、室町時代後期から江戸時代初期にかけて、俳人はいわゆる忌日季語として仏教系の僧侶の忌日を詠んでいたことになる。それが芭蕉の死後(元禄7年[1694年])に、ほかならぬ俳句中興の祖である芭蕉忌(はせを忌)が生まれ、以後、忌日季語の大半が俳人たちの忌日になっていく。俳人の忌日ほどではないが、今日でも僧侶の忌日季語を使う人はいる。
短歌では季語を織り込まなければならないという決まり事はないが、忌日を詠むにしても、俳句より14文字多い短歌では追悼・追慕の心を直接的に歌うことができる。たとえば西行を偲ぶとしても、『よしのやま西行く人のせなを追ひ花も紅葉も山家の闇夜』とでも歌えば良いのである。しかし俳句で同様の表現をするのは難しい。追悼・追慕を表現するには時間軸を遡る必要がある。だが正岡子規が指摘したように、俳句は空間表現には長けているが時間表現が不得意なのである。
子規は時間推移を含む俳句として蕪村の『御手討の夫婦なりしを更衣』『鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉』を挙げていたと思うが、前者は『お手討ちになるはずだった夫婦がなんらかの理由で許されて、今は衣替えをしている』という意味であり、後者は『なにかの変事があったのだろうか、台風であるにも関わらず、白川・鳥羽上皇の住む御殿へ五、六騎の武者が駆けていく』という意味である。いずれも修辞的に極めて高度な句である。しかしこのような句は稀であり、『柿食へば鐘がなるなり法隆寺』(子規)、『菜の花や月は東に日は西に』(蕪村)など、俳句では眼前の静的空間を詠んだ作品が多い。子規が写生俳句を提唱した理由の一つである。
ただ短歌から派生した俳句は、その出自のアイデンティティとして、空間表現のみに終始することはできないのである。乱暴に言えばそのために季語があると言える。単純化して言えば、表現にはそれを完結させるための最低限度の座標が必要である。俳句の空間表現をY軸とすれば、季語はX軸であり、それは時間軸を含む。このXY軸の交点が作品であり、それをもって俳句はある特定の時空間を表現する表現として完結できる。
この思考を敷衍していけば、季語を考察することは、俳句から短歌表現を遡って、日本文化の基層にまで届くはずだという推論が成り立つことになる。また初期の俳人たちが、忌日季語を仏教系の僧侶に措定していたということにも意味があると推論できると思う。それは俳句と短歌の基層を示唆している。祈りといってもいいし、思想と呼んでもいい。俳句や短歌では形式そのものの中に潜在しているアプリオリな思想があるのである。季語は俳句・短歌文学の時間座標であり、それは恐らく文字以前まで遡る過去の歴史的記憶を含む。
俳人の皆さんが、とにかく様々な技法を学習して作品をお書きになるのはけっこうなことだと思う。しかしその技法のよって来る原理を考えなければ、技法はほんのつかの間の新しみで終わってしまうと思うのだが、どうだろう。
岡野隆
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