『月刊俳句界』8月号の特集は『日本人と七五調 知識人はなぜ七五調を嫌うのか!?』である。特集の扉に『七五調と日本人は、切っても切れないものがある。しかし、それゆえに多くの反発もある』とある。『俳句界』の特集はたいていの場合、初心者向けの入門で、これをきっかけに探究を深めてくださいといったものだ。その偏りのないリベラルな姿勢は好もしいが、今回はちょっと問題が大きすぎたようだ。
戦中は皇国少年で、戦後に民主主義の洗礼を受けた方に七五調を嫌う人は多い。日本に限らないが、周辺地域からの政治・経済・文化的な圧迫を受けると国粋主義が勃興しやすい。外圧によって大きな変化を強いられると、その反動として国家独自のアイデンティティを確認しようという機運が高まるのである。日本は明治維新以降にほとんど盲目的に欧化主義を受け入れたが、その歪みが第二次世界大戦で頂点に達したのだと言える。思想史的に言えば〝近代の超克〟の問題である。
戦中に亡霊のように復活したのが七五調の古歌だった。軍歌として有名な『海行かば』は『万葉集』の歌である。このような七五調が軍国主義の記憶と重なり、戦中派の激しい嫌悪を呼び起こすのである。この嫌悪感は思想的というより、まず肉体的なもののようだ。易々とある思想に取り込まれてしまった自らの実存に対する不信感、嫌悪感と言ってもいい。そのため戦後の第一世代は、特定の思想を排除する無思想的思想に向かっていった。小説での無頼派はもちろん、自由詩の世界でも作品から明確な思想を読み解くことはできない。そこにあるのは荒地にポツンと佇むような孤独な人間の姿だ。戦後の知識人は維新から約80年にして、ようやくヨーロッパ思想にも国粋思想にも没入することのない思想的ゼロ地点に立ったのである。
ただほとんどの日本人は、確信をもって七五調を嫌悪してはいない。日本語で生活し表現する限り、七五調を完全に排除することはできないのである。戦中派の知識人は、戦後の肉体的飢餓感を精神的飢餓感に重ね合わせ、極限までやせ細ることから戦後の知的活動を開始していった。その際、そぎ落とさなければならない要素として七五調が国粋主義思想の象徴になった。しかし彼らを除いて、特定の世代が社会的影響によって七五調を嫌う状況は生じていない。嫌うとすればそれは個人的な事情である。戦後の大多数にとっては、『なぜ七五調なのか』という問いの方が、一般的問題意識として共有しやすいだろう。
この問いに真っ先に答えなければならないのは、戦後はもちろん戦中も七五調にこだわらざるを得なかった歌人や俳人である。しかし歌壇や俳壇に七五調の本質を根源的に捉えようという機運は現れていない。もっと正確に言えば問題意識すらない。俳人はしばしば『俳句とはなにか』と問われ、『五七五の音数で構成され季語を含む世界で一番短い詩である』と答える。
これが外形的な特徴描写でしかないことは中学生にでもわかる。しかし彼らの思考はここから一歩も進まない。五七五の定型を神から天啓のように与えられた絶対形式として捉え、季語だ季感だ切れ字だ原発は俳句になるのかなどと、形式内部での些末な議論を繰り返している。日本語の核心に近い文学ジャンルに生涯全精力を傾けながら、その本質を考えてみようともしないのである。
海行かば(5)
水漬く屍(6)
山行かば(5)
草生す屍(7)
大君の(5)
辺にこそ死なめ(7)
かへり見はせじ(7)
『海ゆかば』は『万葉集』に収録された大伴家持の長歌の一部である。音数は57/57/577の意図で構成されている。従って家持の長歌は、『万葉』の中での最古歌ではない。最古歌は57の繰り返しから構成される祝詞などであり(55、75調もある)、それはどこまでも無限循環し続ける歌である。長歌の末尾が77で終わる作品は文字が定着した後に生まれている。アイヌのユーカラを始めとする無文字文化の歌は祝詞と同様に無限循環的だが、文字が流入すると〝始まり〟と〝終わり〟という概念が生まれる。57調を77で止めるのは、57の歌謡に楔を打って意味的に止揚するためである。この長歌が短縮されて57577の短歌が生まれたことは言うまでもない。
正岡子規は57調は尻重く、75調は尻軽であると論じている。和歌嫌いだった後白河法皇は今様を好み、歌謡集『梁塵秘抄』を編纂した。『遊びをせんとや生れけむ(75)/戯れせんとや生れけん(75)』といった有名な章句に明らかなように、『梁塵秘抄』の音数は75調である。歌謡だから当たり前だと言う者は物事の本質を考えられない人だ。終わりが5音の方が軽い歌(詩)になるのである。つまりこの区分けで言えば、短歌は57調、俳句は75調ということになる。俳句は短歌よりも尻軽なのである。〝調〟ひとつとっても様々な検討は可能である。またなぜ短歌から俳句が生じたのか、それはなぜ77を切り落とすことで成立したのかを考察しなければ、俳句文学の本質には届かない。
俳人では正岡子規、高柳重信、安井浩司らが俳句文学の本質について思考を凝らしている。思想家では吉本隆明が『初期歌謡論』などで重要な仕事を残した。しかしたいていの俳人は自己の作品を生み出し、結社を維持し、俳句仲間を増やすことだけに興味を集中させている。その姿は外から見れば極めて〝愚鈍〟に見える。大半が文学の問題ではないからだ。もっと問題なのは、文学ではない雑事に多くの時間を取られていると認識しながら、俳壇外の一般社会に顔を出す時に、俳人が文学者の顔を粧うことにある。バレていないなどと思わない方がいい。その仮面はさらに俳人を〝愚鈍〟に見せている。知識人が〝七五調〟を嫌うとすれば、そのような俳人の虚偽を嫌うのだ。俳壇の大勢は桑原武夫の俳句『第二芸術』論の批判的地平を一歩も出ていない。
別に『俳句界』の特集に意義を申し立てるつもりは全くないのだが、こうやって問題の表面をなでまわすだけで俳壇では百年一日のごとく時間が流れていくのだなぁと思うと、突然、苛立ちがこみ上げてしまった。余計なことを書きましたが僕は俳句を愛している。俳壇で原理論や本質的探究を始めれば、間違いなく俳壇のメインストリームを外れることになる。誰からも愛される優等生の結社員として働き、編集を担当し、主宰になり、ゆくゆくは朝日か読売か毎日俳壇の撰者というのが俳人の出世コースだろう。現世双六ゲームの〝アガリ〟だ。それはそれでよい。が、それだけでは足りない。俳句の世界で真に本質的な仕事をする俳人が現れることを心から期待しています。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■