『月刊俳句界』7月号の特集は『〝震災〟想望俳句の是非』である。特集の扉に『震災想望俳句とは、震災未体験者が、テレビやインターネットの映像、新聞や雑誌の写真などを見て、震災を詠んだ句のこととする』とある。平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災以降、おびただしい数の震災関連俳句が書かれた。ズバリ震災を題材にした句集も刊行されている。被災者はもちろん、あまり被害を受けなかった人も震災俳句を詠んでいる。その是非を今一度問い返してみようというのが特集の意図である。
特集巻頭は社会性俳句の重鎮・金子兜太氏のインタビューで、『俳人はこうした生な現実と取り組まないで、深く自分を省みて、ゆっくりと俳句を作りなさい、それが俳句を作るときの姿勢だという人も実際にはいる。そういう姿勢が一方にあるということは承知していますが、それに私は反対だということ。生な現実と取り組むのが現代の俳人というものの姿じゃないかな』と語っておられる。
一方で震災俳句に異和感を感じておられる方もいる。山本素竹氏はエセー『うしろめたい俳句』で『現場の恐怖もなく、簡単に言えば「お大尽のお遊び」。無責任な他人事俳句で作者の自己満足に過ぎないようです。お手伝いがしたければ除汚のボランティアに行けばいいのです』と書いておられる。
兜太氏の、文学者は現実に向き合って作品を作るべきだという考えと、素竹氏の当事者以外は軽い気持ちで震災俳句を詠むべきではないという姿勢が、震災を巡る文学者の態度の代表だろう。兜太氏は文学者の、素竹氏は生活者の倫理に立脚していると言っても良い。どちらも正しい姿勢である。
俳句に限らず文学(文化)は豊で自由な社会の上澄みである。サルトルのテーゼを持ち出すまでもなく、文学は太古の昔から実利的には無用の産物である。餓えに悩まされ、独裁者に自由を奪われた国家では文化が華開かない。『ホモ・ルーデンス』(遊ぶ人)の営為なのだ。しかし人間が動植物と違うのは、言語を使った高度に抽象的な思考ができることにある。それは人間存在に対する思考を深め、原理的にはよりよい未来を切り拓くための真摯な人文学的探究である。その意味で現実世界で起こった事象を文学で表現するのは、一定の意味があると考えられている。問題はそれをどう表現するかである。
戦争俳句は前線俳句と銃後俳句の二種。前線俳句には前線作家の前線俳句と銃後作家の前線俳句の二系列があり、後者がいわゆる「戦火想望俳句」。すなわち、銃後にあってニュース映画などを発想の媒体として想像力を駆使して前線を詠んだ句だ。(中略)
この戦火想望俳句の創作方法に対して、主に有季派から批判が相次いだ。(中略)
これらの批判は発想の契機に至るまでの現実の次元と表現レベルの次元との癒着、文学の次元と人道の次元との癒着が明白なドグマだ。(中略)が、近代俳句では写生・客観写生・境涯俳句に根ざすこのドグマは根が深く、俳人たちへの掣肘力は今日の震災想望俳句にまで及んでいる。
(川名大『銃後の作家諸君、萎縮するべからず』)
川名氏は第二次世界大戦中に書かれた俳句を分析することによって、文学者と生活者の倫理の対立に一定の決着をつけようとしておられる。悲惨な現実を目前にしても、誰もがそれを的確に表現できるわけではない。現実の衝撃を言語的衝撃にまで昇華するためには、作家の強靱な思想が必要とされる。今現在起こっている自己や他者の困窮と、原則的に作家の肉体が見えない紙の上の染みとして、同時代はもちろん将来に渡って表現・伝達される文学は、行動と思考の両面において、違う審級の人間営為として考えられるべきだということである。実際、『戞々とゆき戞々と征くばかり』(富澤赤黄男)、『遺品あり岩波文庫「阿部一族」』(鈴木六林男)、『銃後といふ不思議な町を丘で見た』(渡邉白泉)など、第二次世界大戦中には数々の優れた銃後・前線俳句が書かれた。
ただ戦争と天災を同じ次元で論じてもいいのかという疑問は残る。戦争は国家レベルでの人間社会が引き起こした巨大な歪みである。杓子定規に言えば、大政翼賛界に協力した作家たちも実際に従軍した作家たちも、みな戦争協力者である。しかしそのような人間社会の強圧的歪みをもろに受けた世代の中で、政治的イデオロギーとは無縁に〝人間の尊厳〟を表現した作家たちを、僕たちは優れた銃後・前線俳句作家と呼んでいる。しかし天災は人間社会が生み出した歪みではない。戦争では人間社会の歪みが仮想敵として存在していた。しかし自然を仮想敵とする心性は、特に日本人の場合、希薄だろうと思う。
震災俳句(文学)の問題は、恐らくここから本題に入るのだろうと思う。戦争も天災も人間に悲惨をもたらす。この悲惨に直面して、どのように人間の尊厳を表現するのかが、震災文学のアポリアだということになるだろう。ある人は特定個人がおちいった悲惨を詳細に表現する。ある人はボランティアの献身的で勇敢な行動を綿密に描く。またある人は、震災によって生じた福島原発事故を仮想敵とするだろう。しかしそれを明確に〝敵〟と認識した途端に、文学はイデオロギーの道具になってしまう。人間の尊厳はイデオロギーを超えたところに現れる倫理的イデアである。原発賛成派や作業従事者の中にも、人間の尊厳は確実に存在する。
震災の悲惨においては仮想敵など存在しないというのが、それを文学で表現するための前提的理解なのではないかと思う。ただ一方で、憎むべき仮想敵が存在しないという事態が、震災文学にはっきりとした倫理的コードを課している。大半の震災文学が、表層的なヒューマニズムと底の浅い倫理に流れているのである。言葉は悪いかもしれないが、震災によって露わになった人間心理の闇を探究し、それを通過することによって新たな人間的尊厳を表現する〝不謹慎文学〟が現れないのである。多くの文学者が、震災によってぽっかりと開いた深淵の縁に留まって、「だいじょうぶ、がんばっていこうね」と声を掛けあっているのが現状である。
柄にもないことを書いたが、文学者の大半が震災倫理コードに縛られて、みな同じ方向に顔を向けている光景は健全でないと思う。文学者の倫理と生活者の倫理が審級の異なるものなら、震災倫理コードに背を向ける勇気も文学者には必要だと思うのである。
なお、『月刊俳句界』7月号では『夏休みだ!こども俳句大競詠』という特集が組まれていた。小学生から中学生くらいの子供たちの俳句を特集したものである。秀作に選ばれた8人の子供たちの作品が写真付きで掲載されていた。最年少は田中真理ちゃん5歳。
かれとうろうからのまんまでいきている
あかいあめになってつばきがおちにけり
ゆきだるまよるはどうわのへやにいる
ちきゅうというさかなみらいへおよぎけり
『かれとうろう』の句は、漢字混じり表記にすると『枯燈籠空のまんまで生きている』ということになるだろうか。思わず『マジっすか』と唸ってしまった。俳句の未来は明るいようである。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■