くわらくわらと 藁人形は 煮られけり 寺田澄史(きよし)
生前の大岡頌司から、寺田澄史が手先の器用な皮職人であると聞いたことがあった。洋の東西を問わず、古くより皮は生活道具の素材として加工されてきたが、道具としての機能というよりも、無機質な道具に「血をかよわせる」ための「飾り」として使われてきたと言った方がいいだろう。皮はもともと生き物であるが、皮職人の手にかかれば死物と化す。そして、同じ皮職人の手指を経て装飾物となった皮は、死物のように冷たい道具に血をかよわせることで、たとえ象徴的な意味ではあるにしても、再び生命を与えられる。
こうした生殺与奪の日常の中で、皮職人による皮肉な運命の施術は、皮職人自らを呪われた自己愛へと導いていく。この自らを呪われた者として愛する皮職人のナルシシズムは、やがて世界を呪い尽くす欲望へと至る。呪われた世界を呪う呪文の入れ子細工。寺田澄史の俳句世界をひと言でいえばそう表現できよう。安井浩司は『聲前一句』の冒頭で、そんな寺田の俳句作品を、「妙に呪わしい韻律」であるとか、「和と洋のグロテスクなまぐわいを奏でた奇怪な音(ね)」と呼んでいる。そしてそれは、「聴く耳を持つ者だけ」にしか届くことは無いと言う。
これも大岡頌司の話だが、寺田は「俳句評論」に集った俳人のなかでも中心的な存在だったらしく、大岡や安井の兄的な立ち位置だったようだ。その俳句作品の中核をなすナルシスティックな呪術は、私淑する高柳重信直伝と言ってもよいが、そうした趣向が、重信の俳句においては結果論的な産物に過ぎなかったのに対し、寺田は言葉を秘教の呪文とでも言うように、嬉々として己の俳句に取り入れた。その処女句集を『副葬船』と名付けたことからも伺えるように、死にまつわるイメージはもちろん、死を手招きするような邪教の喜びをすら、甘美なリズムにのせて歌ってみせた。冒頭の掲出句について安井は、「この一句、もしや誰もが忌避するだろう悪相の作品である」と断言するが、それこそ寺田が企図した俳句テクストの相貌だった。
寺田のナルシシズムは、伝統俳句に反旗を翻す前衛としてのロマンチシズムに支えられている。前出の「誰もが忌避するだろう悪相の作品」の「誰もが」とは、俳壇の主流として俳句の伝統を守り続ける全ての俳人を指している。そもそも悪相のポエジーとは、自然主義的な正統的美学に対するアンチテーゼであり、ポオやボードレールを水源として、ロマン主義における暗黒の秘教性から象徴主義へと至る流れとして辿ることができよう。安井は『副葬船』の作品を指して、「和と洋のグロテスクなまぐわい」と、その和洋折衷の美学を指摘する。俳句は「和」そのものであるから、伝統俳句が墨守する花鳥諷詠的な日常性(=「和」)を棄てたとしても、そこに象徴主義的な「洋」の世界を取り入れさえすれば、簡単に和洋が絡み合う異教的世界が現れる。寺田のこうした方法は周到に計算された戦略で、欲望に振り回された結果ではない。彼は優れた俳句的センスの持ち主と言えた。
『聲前一句』の冒頭より安井は、寺田の特異な俳句的センスを認めたうえで、「私だけがこの書物に対するしぶとい最後の読者であってもいいと思うときがある」と、『副葬船』に対する強い好意を表明する。しかし、「あってもいいと思うときがある」という言い方には、少なからぬ逡巡が見受けられる。『副葬船』に対する安井の好意は複雑である。安井は寺田の俳句を認める一方で、それを手放しで褒めようとはしていないようだ。
安井が『副葬船』に好意を抱くのは、本を正せば寺田の作品との出会いに遡る。「(掲出句は)ぐうぜん私が聴耳を立てた出会いの一句でもあった。けだし出会いとは、きわめて技法的に幼稚な邂逅が、かえってそれを決定的にしてしまうことだ。名句的邂逅を私は信じない」と安井は書いている。繰り返しになるが、〈くわらくわらと 藁人形は 煮られけり〉という冒頭句の悪相は、寺田のしたたかな計算によって意図的に作られたものだ。が、それは決して名句とは呼べない。だが安井はそれを名句と認めて出会ったのではない。そもそも安井は名句であることで作品を信用しはしない。名句であるという認識のもとでの、安心し得る予定調和的な出会いを信用していないのだ。
しかし、名句という価値そのものには、万人が認めるべき評価基準が存在するのも事実だ。名句と認めるための前提の一つは、一句での評価ということになろう。こう言うと当たり前のように聞こえるが、安井は「ところで、寺田の俳諧に発句一番の名句探しをしたら、それは徒労に終わるはずである。げに彼は去る場面で、一句というよりも“塊”で立つんだ、とはっきり言ってのけたことがあり、その一句倒しを実践もしてきた」と、俳句の常識を覆す寺田の価値観を取り上げ、そのスタンスを次のように説明する。
この“塊”のイメージを純粋に受け取るならば、語りや絵巻のごとく作者不詳の煙を上げることではなく、言語像の、しかもかなり末梢の部分から、どこか懐かしい寺田の肉体性がうかんでくる仕組である。肉体などと当の作者は照れようが、私はそこを外してあの奇妙な呪いのリズムを理解できない。
(『聲前一句』より)
常識的に言えば俳句は、一句ごとに一つのモチーフで一つの世界を構築するものだ。また俳句を読むに当たっては、一句で完結することが前提となる。寺田が主張した「一句というよりも“塊”で立つんだ」とは、作句の前提として一つの主題やイメージを設定し、それを派生させながらいくつもの句を作る「主題詠」のイメージに近い。また、数句から十数句を一纏まりの作品群と捉え、群全体を一篇の詩のように読むことをもイメージしている。いずれにしろそうした方法は、多様化も極まった昨今、決して特異とは言えないが、『副葬船』刊行が50年近く前の昭和39年に遡ることを考えれば、当時としては前衛的方法論として異彩を放ったに違いない。例として『副葬船』の前半部である「ほーかす・ぽーかす」(呪文の意)と題された第1部から、冒頭の「咒謌之章」十三句を引用する。
北にゐて 羔炙る 鰥(やもめ)の森番
遠藁火 枯木に棲んで 木霊も枯れる
影の 片足は蹄で来る 羅紗売
(あんばこ)に寝込んでしまつた 風神夫婦
やま繭が死んでゆく日の 迥(はる)かな風琴
雪の夜ふけの 葛籠に潜む 泣きぼくろ
ふさぎやが首縄で往く ろしあすごろく
距(けづめ)を覆い 夜呱(よなき)がしては 野から来る
埋葬の口琴(びやぽん) 山襞を涵しゆけり
くらい手が 筥を開ければ始まる海鳴
沖に向ひて 毛布(けっと)の婆あを喚び降す
雪靴の 木偶が来てゐた 燠あかり
いまも鳥追 おん婆語(がたり)の 山の火事
非日常的な語彙からして、伝統的な花鳥諷詠とはあきらかに一線を画した、言うなればフィクショナルな俳句である。これらの俳句群(俳句“塊”と言うべきか)を、通常の読みに従い一句ずつ単独で読めば、現実には在り得ない荒唐無稽なイメージにより、伝統的且つ常識的な俳句読者には、奇を衒っただけの不真面目な俳句と受け取られよう。また「俳句ではない」としてそっぽを向かれてしまうかもしれない。
「呪術」や「呪文」といったモチーフがより強いイメージ喚起力を持つことで、俳句として立ち上がった世界はよりリアルな現実味を帯びる。もともと日常生活に身を置いて想像すれば、とても在り得ないおとぎ話でしかないが、作品の世界に一時でも寄り添いさえすれば、「ひょっとしたら在り得るかも」と、空想と現実の狭間で揺れる一瞬の間隙を突かれることで、非現実が現実に擦り変わる契機が訪れるというものだ。もともと詩とは、想像された世界に触れることのできる肉体性を仮構する媒体である。さらに俳句形式は、現実という日常性の壁に非現実という間隙を穿つのに、その短さからしてうってつけの道具である。寺田の俳句作品は、俳句形式の一撃によって日常性という壁に穴を穿ち、俳句塊という詩的効果を利用して、穿った穴へ非現実という浸透液を注入する。やがて壁(=現実)は内部から徐々に浸透液(=非現実)の作用を受け、いつしか現実に代わって非現実が世界を支配するようになる。
俳句は「一句というよりも“塊”で立つ」というコンセプトは、寺田自身の俳句テクストの評価に限って言えば、結果的にプラスに働いたと言えるだろう。しかし、結局のところ寺田の俳句は短命であった。結論を言ってしまえば、「呪」というモチーフは、ナルシスティックな欲望という主体の内部への方向性しか見出せず、それが作句をマンネリズムに陥らせた。また俳句塊という方法は、本来自由が保障されているはずの読者を作者の都合のいい方向へ導こうとするもので、前衛という目的を同じくする仲間内でしか通用しない極めて閉鎖的なコンセプトと捉えられた。先に寺田の俳句的センスと言ったが、俳句的センスはどこまでも「的」でしかなく、俳句の本質には届かなかったということだろう。寺田は、『副葬船』刊行から五年後に当たる昭和44年に、第二句集『がれうた航海記』を上梓しているが、これを最後に前衛と評価すべき俳句作品は途絶えてしまった。前述した安井の逡巡は、こうした寺田の行き詰まりにうすうす気付いていたからかもしれない。
だが、安井が『聲前一句』で書こうとするのは、作品の成否を判定するような結果論ではない。作品の出来不出来にしろ、あるいは創作における方法論の評価にしろ、理路整然とした分析によって結論付け得たとしても、それだけでは句作の糧として己に返ってくることはない。そうした分析や思考の種が、一人の俳人という肉体を通してどう培われ、どんな言葉となってテクストに結実したか。安井は『聲前一句』を書くことによって、そうした俳句テクストの核をなす俳人の肉体性に照明を当てようとする。肉体性とは矛盾するようだが、俳句は作家という主体が作品の中で抹消したところから立ち上がる。だからこそ、作品に俳人という亡霊の肉体を感得することから読解を始めるしかないのだ。安井の審美眼は、常に作品のその場所から発動する。
ところで、今迄の大方の俳句が、どれも野外楽の大小の変奏であったと言うべきではないか。しかし、『副葬船』はほんの一握りの楽器で室内楽を樹てようとしていた。彼は野外に続く俳諧の“足”をみな斬り落とそうとする。俳諧の亡霊よ、さようなら――おそらく、かく叫びたいばかりに、寺田澄史はいよいよ頑なになる外はなかったのだ。
(『聲前一句』より)
自然との一体感を愛する野外楽を伝統俳句に喩えるなら、『副葬船』は作者の内部世界に樹立された室内楽であると安井は言う。前衛俳句に身を置いた寺田は、頑なとも言える態度と作品で伝統俳句に立ち向かった。寺田には伝統俳句を「俳諧の亡霊」と斬り捨てるだけの「意地」があった。更に言えば、「呪」に対する執着もまた寺田の「意地」に他ならない。そして「意地」であると思いさえすれば、「あの奇妙な呪いのリズム」も理解できようというものだ。「いよいよ頑なになる外はなかった」とは、寺田が「意地」になって前衛俳句にしがみつこうとしていたことを的確に言い表している。
しかし、この「意地」とは肉体性へのモチベーションに過ぎない。安井をして「しぶとい最後の読者」でありたいと思わせるに至った、寺田の肉体性をそのテクストに探り当てねばならない。その手掛かりとなる言葉が、実はこの『聲前一句』の文中に数多く使われている。すでに引用した部分と重複する文章もあるが、冒頭から順を追って引用する。
かつての寺田澄史が昼夜となく囁きかけていたもの、それは聴く耳を持つ者だけにとどく妙に呪わしい韻律であった。私は、あの『副葬船』の和と洋のグロテスクなまぐわいを奏でた奇怪な音(ね)の数々を忘れまい。
私はそこを外してあの奇妙な呪いのリズムを理解できない。
しかし、ぐうぜん私が聴耳を立てた出会いの一句でもあった。
たまたま当方の耳に〈くわらくわら〉という奇怪な音が棲みついてしまった。
しかし、『副葬船』はほんの一握りの楽器で室内楽を樹てようとしていた。(下線筆者)
すでにお気付きのことと思うが、寺田の肉体性とは、「韻律」のことである。冒頭から安井は、この「韻律」という言葉で寺田を語り始めている。とはいえ安井が言うところの「韻律」とは、単純な音数の形式ではない。もちろん俳句形式における5音・7音・5音という音数は、日本語固有の秀でた韻律であると言える。しかし、冒頭に掲出した一句、〈くわらくわらと 藁人形は 煮られけり〉の上句「くわらくわら」は、6音の字余りゆえ韻律本来の美しさに劣ると言われるかもしれない。しかし、リズムという点でこの上句は抜きん出ている。この反復語が叩き出すリズムには、藁人形を煮るという只事ならぬ異空間に、読者を頭から鷲掴みにして強引に引き擦り込んでしまう力がある。これを沸き立つ湯の擬態語と捉え、「ぐらぐら」と「わらわら」の合成と解釈することもできようが、そうした評釈を超える力が、このリズムには確かにある。
寺田の俳句テクストに現れる韻律とは、言葉のリズムと音(ね)が絡み合って作る、複雑で立体的な「音楽」である。しかし「音楽」ではあるが、喜怒哀楽のような情緒的表現とは無縁である。寺田の「音楽」性とは、「呪い」や「怪異」といった非日常的空間を、よりリアルに表現するために必要な肉体として立ち現れる。と同時に、そうした異空間へ、聴衆(=読者)を誘うための秘術でもある。それは、「聴く耳を持つものだけ」にしか届かない、消え入りそうなかすかな音だが、空耳かと疑ううちに、いつしか耳から離れなくなっている音だ。そうした音が奏でる音楽とは、和音や旋律といった耳慣れた音楽美とは相容れない、どちらかと言うと不協和音や反復音楽といった、伝統的な音楽とは一線を画した、より原初的で混沌とした現代音楽である。
とはいえ安井は、こうした寺田特有の韻律を、俳句塊の賜物と考えてはいない。何度も引用するが、安井が言及するのは、〈くわらくわらと 藁人形は 煮られけり〉という掲出句一句である。厳密には「くわらくわら」という一語だけが、安井を捕らえて離さないとも言える。安井にはこの一語だけで、あるいはこの一句だけで、寺田の韻律を語るに十分なのである。俳句塊すべてに耳を傾けなくとも、寺田の室内楽は十分過ぎるほど魅力的な音楽として聴こえてくるのである。もはや言うまでもないが、安井にとって一句で立つことこそ、俳句の原点であり、俳句形式の生きる道なのである。
最後に、安井が「最後の読者」と言うときの「最後」について言及しておきたい。「最後の読者」とはもちろん安井自身を指しているのだが、本来最後の読者と言えば、作者を置いて他には無いはずだ。つまり安井は、寺田本人ですら自分の作品の音楽性に気付いていなかったのではないかと感じている。だから、「どこか懐かしい寺田の肉体性」と表現して、寺田の戦略や企図といった俳句的センスと区別したのである。蛇足かもしれないが、寺田が自らの音楽性を自覚したのは、『がれうた航海記』においてである。だが皮肉なことに、この自覚が寺田の音楽をより進化させたとは言い難い。寺田は俳句という音楽をより音楽らしく響かせようとして、作品にひらがな表記を多用した。通常漢字やカタカナで表記される言葉をひらがなで表記することで、言葉の意味作用を弱体化し、もともと意味を持たない音に似せようとした。が、それは結果として、作品の核である「呪」の象徴性を失うこととなった。寺田は自ら、音楽と引き換えに魂を棄てたのだった。
さらに安井はこの「最後」という言葉に、俳句形式において「韻律」がないがしろにされている現状への疑問を込めている。俳句はその短い形式ゆえ、韻律という「音楽性」が評価の俎上に上ることは無かった。子規の写生や重信の多行形式俳句を挙げるまでもなく、俳句は視覚芸術である絵画への憧れにとり憑かれてきた。これは俳句に限らず詩歌全般にも言えることだが、ことさら現代性を装うために、絵画や映画との安易なコラボレーションに熱い視線を注ぎ続けてきた。安井のテクストに、絵画や映画への言及はほとんど無い。おそらく言葉とは無縁なものと映ったに違いない。韻律は言葉の初源より言葉とは切っても切れない関係にあった。それは常に「言語像の、しかもかなり末梢の部分から」立ち昇ってくる。安井は言語像の再認識のために、韻律という音楽に聴き耳を立てるのだ。
田沼泰彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■