昨年は創刊60周年で賑やかだった角川「俳句」ですが、その締め括りともいうべき12月号で、記念シンポジウムと銘打たれた座談会が採録されています。このシンポジウムは『大震災と詩歌』というタイトルのもと、「俳句とは何か、詩歌の未来はどうなるのかを考える上で、大震災のもたらした影響をおいて語ることはできません」という前文のとおり、俳句をはじめとした詩歌全般に関わるその本質や可能性を、東日本大震災がもたらした影響という側面から掘り下げようという趣旨です。
昨年の10月7日に開催されたこのイベントは、震災後およそ一年半が経過したことで、創作にもたらされた震災の影響をより冷静に検証することができ、この未曾有ともいわれる天変地異が、詩歌の各ジャンルにおける作品にどのような痕跡を刻んだかをあらためて考察するに格好のタイミングであったと思われます。こうした機をみるに敏ともいうべきマーケティング戦略は、さすがに角川ならではと感心することしきりです。
しかし、大震災といった特殊性の高い稀有な事例をもとに、俳句の本質や詩歌の可能性といった普遍性のある問題を考えるというのは、果たして有効な議論となり得るのでしょうか。もちろん議論のきっかけにするだけなら大震災だろうと近所の小火であろうとかまわないのですが、本質や可能性といった普遍性のある問題はどこまでも日常的な思考のうちに、あくまでも日常性を土台に据えて考えるべきではないでしょうか。
ジャーナリスティックな事件が起こると、それに絡ませて文学を再検討しようとする風潮が必ずといっていいほど見受けられますが、そうした風潮が文学史という長いスパンでみた場合極めて短命であることを思うにつけ、大震災をきっかけとした議論や創作が、その記憶と足並みを揃えるかのように、いつしか忘却の彼方へ消えてしまわないか心配です。
いじわるな見方をすれば、千年に一度の自然現象をきっかけにしないと再検討できないような問題などは、俳句であれ短歌であれ自由詩であれ、もともと文学の問題として深く考える価値がないのではないかと思ってしまいます。「大震災」という言葉が、「イベント」集客のうたい文句としてしか機能しない事態が、この一年半の間、文学という被災地のそこらじゅうにごろごろ転がっていました。そんな光景にはもううんざりです。マーケティング戦略云々はさておき、60年という歴史を背負うこととなった角川「俳句」には、俳壇はもとより歌壇や詩壇にも影響を与えるような、文学的に意味ある「イベント」を期待する、というのが俳句愛好者の偽らざる心境でしょう。
シンポジウム『大震災と詩歌』へと話を進めましょう。パネリストは、俳人の高野ムツオ氏と、歌人の佐藤通雅氏、並びに詩人の和合亮一氏の3名です。3名に共通するのは、程度の差はあれ被災者であるということです。つまり、被災した創作者という視点から、震災体験が自らの創作にどのような影響を及ぼしたか。そしてその影響がそれまでの詩歌観をどのように変化させたか、という体験告白的な設定になっています。順を追ってパネリストの発言から印象的な部分を引用してみます。
(高野)あの地震の怖さ、ものすごさなどをどう表現したらいいかということに悩みました。その地震の正体を捕まえてやろうと思って作った句です。この句には季語がありません。地震そのものを捉えようとした時、「春の地震(ない)」とは言えない。ましてや他の春の季語、生命感のあふれる時期という思いと地震を組み合わせるのは難しいことでした。
(佐藤)私自身はなんとか助かったのですが、死者が隣にいる感覚がずっとあります。つまり、たまたまこちらは山手のほうに住んでいたために生き残った、生きる側に残ったんだという感覚です。(中略)〈死者の数、千否万の単位にも驚かずなりしわれを憤る〉死者の数が十単位の時は胸が痛みました。それが千を越えて万になった時は、驚きに鈍感になった。そんなわが身を振り返って憤りが湧いてきたという歌です。(中略)いっそのこと、どういうふうな地獄状態になるのかを見たいという好奇心もあったのです。
(和合)私は二十年間、シュールレアリズム(超現実主義)を追いかけた詩を書き続け、六冊の詩集を出しておりました。シュールレアリズム、言語芸術、言語派と詩壇で呼ばれてきました。ずっと自分が守ってきたシュールレアリズムが、目の前のシュールレアリズムに打ちのめされました。自分がいままで追いかけてきたものがすべて崩壊し、何を書いていいのか分からなくなりました。(中略)目の前の現実のほうが超現実の世界であり、自分の手元にある超現実の世界はもう形を成さない。そんな自信のなさに打ちのめされていました。
3人とも被災体験がもたらした創作への影響について大変正直に語っています。もちろん皆さん言葉を使うプロですから、正直といっても言葉どおりに受け取ることはできません。正直に聞こえる発言の裏には、必ずといっていいほど正直に語るに足る戦略があるといってもいいでしょう。たとえば俳人の高野氏は、それまでの作句では使ったことのない無季、つまり季語を使わないで句を作ることですが、この有季定形という正統的な俳句形式を敢えて逸脱した方法による震災詠を通して、季語が持っている季感の絶対性と大震災という未曾有の出来事が喚起する叙情とが、まったく相容れないものであることに為す術が無かったと告白します。俳句という写生機能を最大限に使っても、被写体である震災の表現において、俳句形式に相容れない異物感のようなものが厳然と存在することを明かします。
しかし高野氏は俳句形式の限界ともいうべき事態を経験したにもかかわらず、それ以上俳句を掘り下げて考えるまでには至らなかったようです。なぜ「春の地震(ない)」という表現に俳句としての違和感があるのか。なぜ春の季語は「生命感」という呪縛から逃れられないのか。そもそも生命感という叙情と天変地異という叙事とを、季語を媒介として取り合わせることがなぜ不可能なのか。そうした現象はただ提示されるばかりで、その原因究明にまでは話が及びませんでした。それはつまり震災を経た俳句にとって、原因を改めて追究するほど予想外な現象として認識されてはおらず、大多数の俳人にとって常識の範疇で理解できることなのに違いありません。
また先に引用した部分に続けて高野氏は、「そのため無季の句にしました。そこに評価の分かれ目もあるのかもしれません」と、無季俳句という自作に対する疑問を付け加えます。そしてその疑問は(極めて性急に)他者の評価へと委ねられます。ここでの他者とは、大震災という未曾有の出来事が起こるまで、長きに亘って受け継がれてきた伝統的な俳句の価値基準のことです。高野氏にとっても、また高野氏が想定しているシンポジウムの読者にとっても、そうした価値は絶対的なあまりに議論の対象にはならないのでしょう。
高野氏と俳句とをイコールで結べば、俳句が震災から受けた影響は明確です。それは無季という好ましからざる俳句的方法によって、俳句が表現できる領域が「震災」にまで拡大したということです。それは悲劇という叙情の範疇が、俳句表現において確実に広がったことを意味します。逆にいえば、震災のような非日常的事象の表現には、無季という本来は非なる俳句的方法が適していたということです。
つまり俳句という文学ジャンルにおける震災の影響は、俳句における表現方法の問題として現れた、と高野氏は言っています。また無季という他に高野氏は、震災表現として従来の俳句形式では不適切とされていた一句における動詞の多用を挙げていますが、これも表現方法の問題に他なりません。
次に発言の順番からいえば歌人の佐藤通雅氏ですが、俳句における震災の影響が表現上の問題として現れたことを受け、同様に表現上の影響を受けた詩人の和合亮一氏を先に取り上げてみたいと思います。和合氏の発言も正直というか素直に震災体験を語っているように聞こえますが、その本旨をまとめると次のようになります。
和合氏の詩作における基本的スタンスを簡単にいえば、想像力によって現実(=リアル)を超越する世界(=フィクション)を創出することで、そうした現実と超現実との振幅の大きさにこそ詩の生命をかけてきたといってもいいでしょう。和合氏はそうした自らの詩作をシュールレアリズム(超現実主義:なお、正確には仏語の音読表記によるシュルレアリスム、また和製英語流に表記すればシュールリアリズム)と呼んでいますが、おそらく氏はシンポジウムの聴衆のほとんどが詩とは縁遠い俳句関係者だったことに配慮し、厳密なシュールレアリズムの定義はさて措き、現実を超越した事象やイメージを指す「シュール(超)」という意味で使っていると思われます。
また和合氏は、自身のシュールレアリズムという表現が、現実の否定といった思想的背景に基づくものではなく、むしろそのような象徴的な意味を切り離した言葉による、反意味的な世界構築を目指した表現であるとして、「言語芸術、言語派と詩壇で呼ばれてきました」と語ります。つまり和合氏にとって詩表現とは、言葉の意味を無意味化する過程で無意識のうちに発生する精神作用的な表現形式であり、俳句や短歌のように現実に存在する風景や心情を言葉の意味によって再現したり描写するものではないと、あらかじめ明確な線を引いています。
そうした和合氏にとって、詩の本質とはフィクション(=超現実)であり、リアル(=現実)のような意味に満ちていない分だけ、つまり無意味なだけにより「言語そのもの」だったわけです。ところが大震災による被災という現実の体験により、もともと意味を有しないフィクショナルな世界を作っていた「言語そのもの」の無力が露呈し、逆にリアルな世界における意味に満ちた言葉の力を否が応でも認識したというわけです。つまり和合氏が直面した表現の危機とは、現実として認識した事態が想像し得る非現実を超えたことによるもので、簡単にいえば一時的な失語状態に陥ったわけです。
そしてそうした失語という危機は、和合氏の個人的体験に帰するだけではなく、想像による叙情の創出を旨とする現代詩という表現ジャンル全てにわたる危機として捉えられます。このような失語状態に陥ったら、まずほとんどの詩人は為す術なく沈黙するだけだと思います。なぜならそうした実体としての超現実と向き合わされては、想像上の超現実など消えてしまいます。おそらくそれは想像力の枯渇として自覚されたことでしょう。
普通ならとてもペンなど握っていられる状態ではなかったでしょうが、和合氏は違いました。彼はとにかく書くことだけは続けました。書くという肉体的行為だけを機械的に続けたといった方がより正しいかもしれません。では枯渇を余儀なくされた想像力で何を書いたかというと、想像する必要のない眼前の現実を書いたのです。それは和合氏の基本的な詩のスタンス(=シュールレアリズム)からすれば、創作とは言い難い不本意な行為だったに違いありません。しかしその一方で和合氏には危機のなかでなお冷静な戦略があったのも事実です。それは詩集『詩の礫』にまとめられた「詩」の全てが、被災中にツイッターで送信されたことを指します。ツイッターによる露出に関して、氏はそれを表現上の問題として捉えているようです。その部分の発言を引用します。
しかし、ツイッターで現状を伝え続けているうちに、自分の中で目覚めがありました。それは百四十字を一字でも越えると発信できないというシステムです。百四十字というある意味、定型の世界に毎日毎日言葉を投げているうち、自分の中で何かが宿ってきたように思います。(中略)自分なりの定型があった。だから、小さな箱を積み上げるようにして毎日毎日書き続けることができたのだと思います。
和合氏が語るところの「定型」が俳句形式における有季定型と異なるのは、後者が伝統という「規則」として作用しているのに対し、前者は自由の中に身を置く創作者が自ら嵌めた足枷であるということですが、そうした違いはさして重要ではありません。むしろ和合氏における震災の影響もまた、高野氏と同様に表現上の変化となって現れたということの方がより大切です。そしてこの二人の表現上の変化は、省みて過去の創作と比べるに極めて大きいといわざるを得ません。それは、それぞれが震災以前に創作規範としていた「規則」や「自由」といった価値観に反するものとしてとられています。
価値に反するという言い方では、二人が従来の価値観に反旗を翻したととられかねませんが、そうではなく二人とも震災をモチーフに表現するためには、こうした価値観の反転を仕方なく受け入れたといったほうが正しいと思います。つまり已む無くそうせざるを得なかったわけで、そのような状況からさらに一歩踏み込んで、「では何故そうせざるを得ないのか」と考えるに至らなかったとしても致し方ないかもしれません。なんといっても彼らは大震災の被災者なのですから。
佐藤通雅氏の場合は二人と少し違うようです。震災の影響はまず個人の認識の変化として自覚されたようです。「死者が隣にいる感覚がずっとあります」というように、自らが死者の死後を生きているという自覚です。こうした感覚は、短歌という個人の内部を表現してきたジャンル特有のものかもしれません。そういえば「戦後詩」と呼ばれた第二次大戦後の一時期に現れた特徴的な詩表現にも、これと似たような自己認識がありました。それは作者の周辺で戦死した死者に成り代わって、作者が死者の無念を吐露するというものです。つまり自らを死者の代弁者として捉え、死者を弔うという個人的な目的と同時に、戦争という悲劇からの脱却という全的な(個人的ではない)救済を図るものでした。しかし戦争の悲劇とは要するに個人的なトラウマに他ならず、結果として救済は作者個人へと帰することになります。その結果、戦後詩はついに死者を作者の外部にしか措定し得ず、逆に死者を作者の代弁者として利用するにとどまりました。
この戦後詩人と佐藤氏とは悲劇を体験した後の自己認識において似ているように感じられるかもしれませんが、佐藤氏は、「そんなわが身を振り返って憤りが湧いてきた」とか、「どういうふうな地獄状態になるのかを見たいという好奇心もあった」というように、あくまでも死者は自分を省みるための外部の存在と割り切り、自らは内部にとどまったまま己の倫理観だけを頼りに創作をします。こうした自己認識への執着は、主に個人の感情を造型素材とする短歌というジャンルに特有のものかもしれません。しかし佐藤氏の場合は、震災体験により自己認識を見つめなおすと同時に短歌表現の本質を再確認します。短歌という韻律の肉体化について語った部分を抜き出してみましょう。
短歌という型式は長くやっていると肉体化するという面があり、そのために、例えば戦争時代は歌人が率先して翼賛詠を作りました。(中略)あれは短歌という韻律がなぜか日本人の体の中に入り込みやすく、一回入り込むとなかなか抜けていかないという特性があります。(中略)今回、私も含めて歌人たちが震災直後から次々と歌を作ったのは、韻律が肉体化しているせいだと思いました。
当たり前ですが、韻律の肉体化という認識は、それが肉体化である以上生きている者、生き残った者を対象とします。死者が短歌を作れないのは常識として(もしかしたら作れるかもしれませんが読んだことはありません)、肉体化された韻律は不可知な存在(=死者)とは無縁なのです。佐藤氏にとって大震災の死者は、不可知な存在として敬意を評すべきであり、不可知である以上いいかげんな想像だけで死者を代弁するべきではありません。また代弁者という立場で同情したり救済したりするものでもありません。それは常に生きている者の外部にあって、生きている者の都合に合わせてその認識を刺激する存在なのです。ゆえに佐藤氏の視線は、震災で生き残った人に向けられます。少し長いですが、そうした生き残った人への視線を語った文章を引用します。
私は被災圏の度合いを三段階に分けています。一番目は津波の犠牲になって戻らなかった方。二番目は家族を亡くしたり家屋をなくしたりした直接の被害者。三番目は被害が比較的軽度だった方。はじめに新聞短歌に投稿が来たのは三番目のグループの方からでした。それが終わり二番目に移りました。これが質・量ともにすごい歌だったのです。
ただ、これで震災詠が頂点を越したとはまったく思っていません。新聞の投稿作品を読んでいると、いまだに作っておられない方がいることが分かります。ひとつは、小学生、中学生、高校生の段階の、「震災のことは口にしたくない」という若い層です。もうひとつは、小さい子を亡くされた方たち。この方たちは今も詠んでおられません。ですから、震災詠は今回で終わりというわけではない、十年、二十年後に出てくるかもしれない、と長いスパンで考えております。
大震災から一年半が経過してもなお、短歌が書けない人がいるという指摘は重要です。短歌は歌人と呼ばれる人だけのものではありません。震災のトラウマから短歌が詠めない小・中・高校生や、身内を亡くしたショックから短歌が詠めない愛好者を早々に切り捨てるのは間違いです。そうした方々が十年後、二十年後に優れた震災詠を発表するかどうかは分かりませんが、大震災は生涯関わり続けるべき文学的モチーフとして彼らの短歌に根付いたはずです。彼らにとって大震災は終わることなく続く悲劇なのです。震災の記憶が風化するのは仕方ありませんが、それに合わせて震災詠まで風化させてしまっては、震災詠そのものの価値を見失うことになります。
こうした問題は短歌に限ったことではなく、俳句や詩の世界にも当然当て嵌まることでしょう。が、歌人である佐藤氏から指摘されたのは偶然ではないと思います。それは佐藤氏が語っている通り、短歌形式の肉体化という特質によって、歌人である佐藤氏が震災直後の失語という危機を免れたことが大きかったのではないでしょうか。作品を書き続けられたことにより、平常の精神状態を保ちながら震災という非常事態における短歌表現を冷静に見詰めることができた。その結果として短歌形式の再認識へと至り、さらには震災詠を永続的なスパンで考える余裕が生れたのです。
東日本大震災が文学者へ与えた影響の中でもっとも大きかったのは、文学に対する無力感からくる「書けない」という危機ではなかったでしょうか。津波が家々を飲み込んでいく衝撃的な映像を前に、「文学に何ができるのか」といった絶望感にさいなまれた文学者は多かったはずです。それは文学というよりも言葉に対する無力感でした。言葉に失望すれば表現は不可能となり、それは創作者にとっての危機を意味します。だから俳人であれ詩人であれ、眼前の危機を早急に回避するために、対症療法としての新たな表現方法を取り入れようとしたのです。
俳人の高野氏は無季という対症療法をとりました。詩人の和合氏はツイッターを媒体に使うことで定型という対症療法をとりました。ふたりとも「書けない」という危機から脱することを最優先したのです。被災の程度とは関係なく、彼らにとっては「書けない」ことの方がより深刻だったのではないでしょうか。有季定型という伝統を貫いてきた高野氏が無季俳句を書き、シュールレアリズムを信奉する言語派だった和合氏が、定型を意識したリアリズムによって詩作したことが、「書けない」危機の深刻さを物語っています。
振り返ってみれば高野氏にしろ和合氏にしろ、その対症療法は正解だったようです。しかし、対症療法は対症療法に過ぎません。大震災であらわになった言葉の無力感という「病巣」が、はたして対症療法だけで根治できるのか。また対症療法の結果として量産された震災詠が、詩歌の新たな可能性を切り開く力を持ち得るのか。そもそも震災詠という作品は普遍性のあるテクストとして風化に耐えられるのか。そうした震災詠の力を見極めることこそ、このシンポジウムの目的だったはずと思われます。でないと震災詠そのものが千年に一度の「イベント」に合わせた突然変異として、文学史から抹消されることも充分あり得るのです。
『大震災と詩歌』と題されたシンポジウムですが、「俳句」誌主催のイベントですから当然のこと議論は俳句を中心に進んでいきます。高野氏には俳句の世界を代表している責任があるわけですから、俳句表現における個人的な意識や方法の変化を、より普遍性のある結論へと導かねばなりません。「本当の俳句のあり方とは?」という総括的な見出しに続いて、高野氏はこの一年半の間に作られた震災句を挙げながら、震災によって俳句が受けた変化をいくつかに分けてまとめます。
一つは「無季の可能性を俳人は否定してはいけない」ということで、それは高野氏が影響の中でももっとも大きなものと考えていることです。現在のように有季定型の伝統的な俳句形式が主流を占める俳壇では、こうした発言が極めて「冒険的」であるのは間違いないでしょう。その一方で、ほんの一握りですが、はなっから季語を否定して、というよりも無季であることを殊更意識することなく、むしろ無季だからこそ俳句を作っている俳人が存在するのも事実です。震災句をきっかけに、季語の「規則性」の検討や、有季定型という俳句形式の本質論が展開されることを期待してやみません。
次に、高野氏は俳句が17文字という短さゆえに、「俳句は時事と向き合って作るのは難しい」と断ったうえで、金子兜太氏の震災句〈津波のあとに老女生きてあり死なぬ〉をテレビ画面を見て作った句であると断定して、「テレビの画面を見て俳句を作ってはいけないとよく言われますが、そうと言えないことを、この句は示しています」と、あくまでも肯定的な立場で問題定義しています。もちろんテレビを見て作ったかどうかが問題なのではなく、モチーフはどこにでも転がっているから要はその料理の仕方である、といいたかったのでしょう。
要するに高野氏は、震災によって俳句の約束事の範囲が広がったと認識しています。
このように、どういう場面、どういう時代、どういうシチュエーションでも作れるし、鑑賞できるというのが俳句にはあっていいんだと思います。(中略)今回は多くの俳人がこぞって震災のことを表現した。もちろん俳句形式の限界というか、俳句の在り方を思い、直接は震災を表現しないという意思を表明している俳人もいます。私はそれはそれでひとつの潔い態度だと思います。でも、その人の俳句にもじつは間接的に震災という大きな現実は反映してくる。反映しなければ本物ではないともいえる。それは五年十年経った時、はっきりとした答えが出てくるのではないでしょうか。そんな点からも、今回の震災は俳句の言葉の世界を広げてくれたと思います。
言葉の世界が広がったと震災という悲劇を肯定的に捉えるのは、被災者である高野氏だから許されるのだと思います。が、意地悪な見方をすれば、「俳句は何でもありの自由です。うまいへたを別にすれば」という受け取り方もできます。また、震災を表現しないのは自由だが表現しなければ本物ではないという場合の、「本物」がなんであるかも大変気になります。いっそのこと表現しない人を、「潔い態度」などと無理して持ち上げないでいただきたい、と思うのは私だけでしょうか。震災句を書かなければ俳人として認めない、くらいのことを言っていただいたほうが分りやすくていいです。せめて「本物」かどうかはっきりするであろう五年十年後に、もう一度検証の機会を作っていただきたいと思います。
高野氏のこの総括的な発言でシンポジウムが終れば、角川「俳句」として「やっぱり俳句は前向きでいいな」と安心したことでしょうが、そうは問屋が卸しませんでした。問屋の主は佐藤氏です。佐藤氏は、「震災後の俳句を読んでいて、イメージが打ち砕かれるという体験をしました。もしかしたら俳句の歴史の上でも大変動があったのではないでしょうか」と、多少大げさとも思える前置きを述べます。そして大変動の原因はどうやら季語にあるのではないかと考え、季語にある二つの面について語ります。
ひとつは、例えば桜、菜の花など一つひとつのモノがありますね。それはずっと横並びです。歳時記も横並びで事象、物象を収録しています。もうひとつの要素は、季語の一つひとつが宇宙と結びついているという感覚です。一つひとつの草花にしても山にしても川にしても、人間界のものだけではなくて、宇宙と結びついているんだなあ。(中略)横並びの事象の一つひとつだけではなく、宇宙と交感しているから、震災句が生きているんだなということを理屈抜きに実感しました。
つまり佐藤氏は、人間という呪縛を解かれた季語が、一つひとつ固有の存在格として、俳句という全的空間(=宇宙)の中にあって、同格に繋がっているイメージを述べています。もちろん季語を作ったのは人間ですし、それを使うのも人間で、季語という概念は人間のものに違いないのですが、主格としての人間をはじめとして、人間の従属格だったはずの自然(=季語)が全て破壊されたにもかかわらず、俳句作品の中で季語が生き延びているのを目の当たりにし、実は季語は人間ではなく宇宙と交感していたのだと感じたのです。佐藤氏は歌人ですが、この認識は俳句の本質を見据えた卓見だと思います。
佐藤氏が震災によって俳句の本質を再確認したのは、俳句の外に身を置いているからこそだと思います。そして、このあとに続けて語った感想は、俳句の外部だからこその過激な問題提議と受け取れます。
ところが、もうひとつ、私が感じたのは「季語が陵辱された」ということです。言葉にするとどぎついのですが、要するにメルトダウン以降、放射能によって、かなり広い範囲の自然も事象も汚されてしまった。これはまさに陵辱です。以来、季語が陵辱されてしまったという感覚がどうしても抜けないのです。
「陵辱」という言葉には、原発事故に対する佐藤氏の憤りが潜んでいるのかもしれません。しかし、「季語が陵辱された」という認識には、感情がもたらしたものとは明らかに違う、透徹した観察眼が感じられます。前言にあった人間から解放され宇宙と交感する季語が、原発事故という人間の都合によって破壊される様は、陵辱という言葉でしか表現できません。無季という対症療法の裏側に潜むかのように、いまだに季語の危機が続いているのです。震災から二年近くが経過した現在、俳人にこうした危機感はないでしょう。震災直後ならあったかもしれません。しかし、そのほとんどが「時間が経てば元通りになるさ」と願い、さっさと対症療法に飛びついたのです。
季語はつねに人間が日常的に感受する「季感」の表現として機能してきました。有季とは季語を用いたという意味ではなく、季節感を有したという意味で使われてきました。つまり季語は、人間という叙情の主体があって初めて意味を成す言葉であったわけです。そうした人間中心主義とでもいうべき俳句的伝統へのアンチテーゼとして、新興俳句や前衛俳句が率先して無季を掲げた句作実験を試みたわけですが、すでにそうした実験精神は枯渇したといっても過言ではありません。
震災によって瞬間的に季節を失った俳句は、無季俳句という方法によって自ら延命を試みたわけですが、だからといって無季俳句が新たな可能性を示したわけではありません。無季俳句が新たな可能性になるには、季節感の無い俳句というものが俳句として成立するかどうかという検証を待たねばなりません。そしてそのためには、逆に季語を有するということが、季感という言葉の「意味」を超えたところで何を表現し得るのか。つまり、俳句を俳句たらしめる要素として、叙情という人間的感情から解き放たれて宇宙と直接交感し得るような言葉を、季語に要請することが可能なのか。可能であればそうした季語とはどういう言葉なのか。そこに至り着く思考が震災後の俳人の責務なのです。
釈照太
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■