角川「俳句」11月号では「第58回角川俳句賞」の特集が組まれています。今年5月31日に締め切られたこの賞は、応募が昨年より120篇も増え、総数で752篇にのぼったとのことです。応募が増えた背景にあるのは、もちろん東日本大震災です。つまり今年増えたというよりも、震災による創作意欲減退の影響を受けた昨年が、特に少なかったと考えたほうがいいでしょう。ちなみに昨年の受賞作は、大震災と福島原発事故を詠んだ、「ふくしま」と題する永瀬十悟氏の作品50句でした。
ところでこの角川俳句賞は、未発表の50句から選ばれる新人賞で、素人俳人の楽しみである懸賞俳句とは異なり、専門俳人の登竜門と認識されています。選考委員も池田澄子、正木ゆう子、長谷川櫂、小澤實の4氏で、いずれも俳壇の牽引者たるべき高名な方々です。簡単に選考の経緯をまとめると、全応募作品はまず「俳句」誌編集部による予選というふるいにかけられます。予選を通過した37篇は無記名で印刷され、ここで4名の選考委員の投票にかけられます。選考委員が最もいいと思った作品に2点、その他に4篇を選びますが、その4篇は特に順位が付くわけではなく得点も全て1点です。こうして選ばれた上位4篇は以下のとおりです。
『椿落つ』(兼城 雄・1986年)・3点:小澤2点+正木1点
『おおさか』(清水良郎・1956年)・2点:池田2点
『ゴールデンウィーク』(西山ゆりこ・1977年)・3点:正木2点+小澤1点
『間取図』(広渡敬雄・1951年)・3点:池田1点+長谷川1点+小澤1点
*( )内は作者名と生年
このほかに得点の入った作品が8篇ありますが、もちろん得点だけで受賞が決まるわけではなく、勝負の行方は4人の選考委員による討議へと持ち越されます。得点の入った全12編が討議の俎上に載りますが、前述した上位4篇が議論の中心となります。先に結果を言いますと、受賞作は『間取図』でした。本誌誌上には受賞作と作者の受賞の喜びを語った原稿、それに次点ともいうべき上記3篇のそれぞれ50句が掲載されています。そのなかから私の独断で選句したそれぞれの作品を以下に引用します。なお、受賞作品から5句選びそれ以外からは3句ずつ選びました。
呼笛の紐のくれなゐ猟期果つ
雪形や少しく曲る麦の畝
おがくづの山の湿りや春の蝉
にはとりの潜つてゆける茅の輪かな
日脚伸ぶ刺されしままの畳針
(受賞作「間取図」より)
かはほりや湖上の闇に濁りなし
黄昏れて水母はみづになる途中
冬の月仮面の奥の眼の笑ひ
(「椿落つ」より)
てんのうじくちなは坂の朧月
どくだみや錆に朽ちたるトタン塀
蝮屋の蝮専用粉砕機
(「おおさか」より)
虹仰ぎみな湯上りの顔となる
空蝉の空蝉色の影のうへ
穴惑ひ口開くことを試しゐる
(「ゴールデンウィーク」より)
敢えて断っておきますが、受賞作を初めとした上位4作品は、引用句に限らず全句が有季定形に則ったいわゆる伝統俳句です。ここは「角川俳句」なのですから当然といえば当然です。なんだこの程度の俳句なら俺の方がよっぽど詩的じゃないか、とお思いになる方もいるかと思いますが、そうした方が50句応募してもまず間違いなく予選で落とされます。またこうして生き残ってきた句は、詩として優れていようがいまいが、叙情として洒落ていようがいまいが、ほぼ間違いなく俳句として「正しい」文法を踏襲しています。ここで文法というのは、当たり前ですが言葉の規則という意味での文法です。たとえば、〈一羽また一羽小鳥が落石へ〉という句に対する各委員の発言を並べてみます。
長谷川:落石が積もっているところへ小鳥が来ると言いたいんだけれど、〈落石〉という言葉を使うと、落ちていくという運動を感じます。そのあたりの言葉の感覚がいまひとつかな。
池田:「落石に」とすれば、落石に止まっているように読めます。〈へ〉がおかしいですね。
正木:「へ」だと方向になるのね。
長谷川:(中略)〈純白の雲へ日傘を開きけり〉の〈へ〉もやや無理がある。
小澤:その句の〈へ〉は間違ってないでしょう。
正木:この方、「へ」に気をつけるだけでずいぶんよくなるということですね。
小澤:助詞の認識が甘いのは残念でした。
助詞ひとつで受賞が左右される議論に、俳句の厳しさを改めて認識するばかりです。また文法の正しさは規則に留まることなく、読者への受け取られ方にも影響を及ぼします。〈明るさのきはみカヌーの転覆す〉の句を正木氏は、「この〈転覆〉が事故のようにとられてしまうとよくないのですが、カヌーを習っている段階で転覆の仕方なども習ったりするという、そういうのを〈明るさのきはみ〉と捉えるのはおもしろい」と評言していますが、事故のようにとられるとしたらそれは俳句自体に問題がある、と言わんばかりの前置きです。つまり読者を、俳句として正しい解釈に導くことも、紛れもない文法の正しさと言えるのです。俳句作品の読解である評釈においては、作者の意図が読者の解釈を左右する自由詩と異なり、読者の解釈が最優先されます。読者不在の独りよがりは通用しません。
こうしてみると俳句はなんだか国語の受験勉強みたいです。作者を受験生にたとえれば、読者は採点者であり、師匠は合否判定者です。いきおい俳句作品の選考は厳しくならざるを得ません。もうひとつ厳しさという観点から池田氏の評言を以下に引用します。池田氏自ら1点を入れた『丘に見えたところ』(佐藤文香作)に対する批評です。
問題作です。(中略)私が○(=1点)で選んだ四篇のうち他の三篇はみんな同じようなよさで、しっかりうまく書けていて、違和感なく読めます。ところが、この作品はいやな感じがしたりもするんです。すごくおもしろい心理を書こうとしているんです。いかにも才能があるんです。が、才能が見えてしまうところがもったいない。
池田氏は4人の選考委員の最年長俳人ですが、急進的な若い世代の俳人が多く在籍する「豈」の同人で、「イケスミさん」の愛称で世代を超えて慕われていると耳にします。伝統にとらわれない自由闊達な作風でも知られた方です。とはいえこうした場においては、自然と討議の流れを司るような立場を任されます。そんななかで、落選しそうな作品に対して、このように竹を割ったような批評をくだせるのは、自分の審美眼に確たる自信が有るからに違いありません。私がもしこの作者なら、最高の褒め言葉として天にも昇る心地になることでしょう。たとえ落選の憂き目を見るにしてもです。
ちょっと脇道にそれますが、角川俳句賞に限らず、こうした「問題作」が賞を受けることは先ずありません。いうまでもなく文学における賞が、作品の普遍的評価であるというのは幻想です。そもそも文学作品に普遍的評価などあり得ません。なぜなら文学作品には普遍的な価値が存在しないからです。文学に神は不在なのです。文学には作者と読者という一対一の関係だけが存在します。一人の読者の確信的評価が時間とともに積み重なって、文学史という固定化された価値の体系が立ち現れます。とはいえ文学史とは、あくまでも相対的価値なので、気が付いたら消えてなくなっている作品もままあります。
その一方で、文学の経済的価値だけは絶対的に存在します。もちろんお金として存在するので普遍的ではありませんが、お金であるだけに絶対的なのです。世間一般の文学賞とは、この経済的価値だけのために存在します。逆に言えば経済効果こそ、文学賞の価値にほかなりません。角川俳句賞とて例外ではないのです。文学賞とはマーケティング戦略の代名詞と言えます。ゆえにマーケティング戦略に相応しい作品=読者を多く獲得できる作品こそ受賞に値する作品なのです。
池田氏の問題作発言に戻れば、氏は賞を取り巻くそうした事情に敏感なゆえに、あえて才能があると指摘している節があります。角川俳句賞に限らず、文学賞とは抜きん出た才能に与えるものではない。人より突出した才能は「もったいない」のです。では賞はどのような才能に対し与えるべきなのか。人から愛される才能に対してです。人とは選考委員や編集者はもちろん、お金を払って読んでくれる読者全てを指します。池田氏に限らず処世に長けた俳壇のリーダーであれば自明のことでしょう。なにやら文章がひがみっぽくなってしまいましたが、なにも賞に対する批判をしているわけではありません。今回の角川俳句賞そのものを評価するために、不可欠ともいえる共通認識を確認しているのです。
今回の受賞作である『間取図』に対する、選考委員の選評に話を進めたいと思います。ちなみに本作は、選考委員の採点票では3点で、他の2篇と得点上は並んでいますが、3人の委員がそれぞれ1点ずつ投じています。他の3点作2篇がいずれも2人の委員によるものであるのと比べ、多数決という観点から言えば最高点ですが、前述したとおり点数や推した委員の人数ではなく、4人の討議が受賞の決め手になります。討議の模様は本誌を読んでいただくとして、ここでは受賞することになる『間取図』に対する各委員のコメントを、発言順に引用してみます。
小澤:なかなか大柄な句がありました/正攻法の風景画です/描写ですが、不思議な感じもあります/写生の句ですが意外性があります
長谷川:特に×がつく句はないですね
池田:あとで出てくる「おおさか」は私しか採らないなと思って、そっちを一番にしたんです。だから、これは一・五番ですね
正木:とてもうまい方で手堅いし、欠点があるわけではないと思います
つまり、特別際立っているわけではないけど万人受けしそうな作品、というところが4人に共通した評価といえるでしょう。まさに角川俳句のマーケティング戦略にうってつけの作品というわけです。もちろん4人の評価が一致しているわけではありません。というよりも微妙に温度差のある評価ともいえます。しかし4人とも十分「オトナ」であると同時に、俳壇を先導するという使命感に満ちています。俳壇にとってマーケティングはもとより、経済的価値こそは最優先すべき価値に違いありません。そのための角川俳句賞なのですから。だから、選考委員に自分の推薦句を押し切ってまで通そうとするモチベーションは感じられませんし、そうすることが賞の戦略にそぐわないであろうこともまた十分過ぎるくらい感じておられるようです。
とはいえ、賞とは一年を締めくくるうえでの大切な区切りでもあります。であれば本音はともかく、言いたいことは言い残したくないのも心情でしょう。最後にその辺の言い残しておきたくない本音(に近い)ところを発言順に引用してみます。
長谷川:去年の受賞作となった「ふくしま」のようにテーマが強烈な場合はそれでよかったと思うが、今回はそれがなくて、俳句の出来だけで見ていくのですから、平均的にできているのがよいか、一句でも立っているのがあったほうがいいか。
正木:私が推している「ゴールデンウイーク」が平均的とは思わないですよ。人の詠まないところを詠んでいる。そういうところを評価したのです。最初にいいということで挙げた句はよくできている句を言っているので、私が評価したのはむしろそうじゃないところです。
池田:(「間取図」が)いちばん上手ですね。悪い意味じゃなくて。うまさが、いわゆる今まである句のなぞりみたいなところで止まっていない。この人らしく書けているんじゃないでしょうか。
小澤:中七の「や」切れは流行の形式ではないと思うのです。切字の安定した形のよろしさを訴える価値はあると思います。僕は中七の「や」切れがすごく好きなものですから。
テーマ不在のなかで50句を評価するとしたら、平均を採るか秀句を採るか、という長谷川氏の問いかけは、ではテーマがよければ句の出来は二の次でいいのかと切り返されるでしょう。ちなみに氏は今回秀句の存在を重視して選考しています。正木氏の評価にも池田氏と同じコンセプトが感じられますが、言い訳のように聞こえなくもありません。経験の差というものでしょうか。その点で池田氏は狡猾です。「上手」とか「うまさ」とか分かりそうで分からないけど説得力だけはあります。小澤氏は終始技巧にこだわりますが、こだわりが好き嫌いであることを白状しちゃうところが人の良さを感じさせます。
角川俳句賞が専門俳人の登竜門を標榜するならば、その長い歴史のなかで凡百の専門俳人を輩出するよりも、一人のスター俳人を狙う方がより大きな経済効果を生むはずです。まもなく迎える60回を機に、賞の存在価値をステップアップするべきではないでしょうか。
釈照太
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■