『月刊俳句界』4月号の特集は『今、ブームの密教を詠む』である。特集ページの扉には、『密教には広大無辺の宇宙観がある。宇宙、または、あらゆる森羅万象と溶け合い同化するという、その考えは、俳句にも学ぶものがあるだろう。昨今、あらゆる世代を巻き込んで、密教がブームになっている。密教とは何か、密教の魅力を考えてみる』という編集部の言葉が掲げられている。密教がブームだということは知らなかったが、特集の巻頭には、宗教学者の山折哲雄氏と批評家の前田英樹氏が総論的エセーを寄せておられる。
以前、『安井墨書展』関連論考である『唐門会所蔵作品』で書いたことがあるが、日本の精神文化には大別すれば二種類の流れがある。密教的心性と禅的心性である。奈良時代の最澄・空海が日本の密教の祖とされているように、古代仏教は密教だった。それが鎌倉時代になると禅宗が流入してくる。平安時代までは密教文化が主流であり、鎌倉時代以降は禅宗文化が主流になるのである。現在の日本人の心性は、禅的文化に置かれていると言える。
この密教・禅宗文化は日本文学に多大な影響を与えている。濃密な神秘性を湛える平安短歌は密教文化が生み出したものであり、現実直視で即物的な俳句が生み出された背景には禅宗文化の定着がある。室町時代は水墨画の全盛期だが、絵画から色が失われるという驚くべき事態は、世界を無の一如で捉える禅宗の影響を考慮しなければ理解できない。芭蕉の『古池』の句がしばしば禅的悟りの境地と結び付けて読解されるように、俳句文学は基本的に禅的心性に基づいている。
ただもちろん『俳句界』は思想雑誌ではなく俳誌である。特集では密教入門に必要最低限の情報が掲載されている。密教に興味を持った読者が、後は自分自身でその奥義を探索していけば良いだろう。特集では冬の高野山などの写真も紹介されていて、それはとても美しい。また『冬の高野山を詠む』というページがあり、10人の俳人の方が句を発表されている。
枯れ山を抜けて枯れ山続きたる 塩川雄三
囀りや千年杉の秀(ほ)に日射し 名村智子
本山の湯気本山の檜皮葺 鳥井保和
十僧の足音揃ひて雪のひま 山田佳乃
護摩行の昨日に花の雲がかり 豊田都峰
山椒魚修験の道に匍い上る 伊藤通明
溜池の上の日輪鳥つるむ 涼野海音
稚児の歩に合はすお練や初不動 山澄祐勝
うつの気や五月の爪を切りをれば 細谷喨々
宗教を題材にした作品だけあって、どの句にも清涼感がある。ただ少し余計なことを書いておけば、密教を〝句題〟にすることと、密教的精神性を作品で表現することは異なる。特集に掲載されているのは密教を〝句題〟にした作品である。
『俳句界』4月号では『エロスを詠む』という特集も組まれているが、『むら雨の夕べはあやし恋しどり』(捨女)、『青梅を咬む歯に玉の響き哉』(浦四三子)、『花衣ぬぐや纏(まつは)る紐いろいろ』(杉田久女)、『姉と書けばいろは狂いの髪地獄』(寺山修司)、『女陰の中に男ほろびて入りゆけり』(堀井春一郎)、『かたつむりつるめば肉の喰ひ入るや』(永田耕衣)といった作品の方が、密教的心性を表現した句だと思う。
物凄く単純な腑分けをすると、ユーラシア大陸を西から東に移動するにつれて、神の存在は希薄になる。ユダヤ、キリスト、イスラーム教はセム族と呼ばれる人々が生み出した宗教で、彼らは唯一の人格神を夢想する(とりあえずそう言っておきます)心性を持っていた。それがユーラシア大陸ほぼ中央のインド・パキスタン・アフガニスタンに移ってくると、唯一の人格神が揺らぎ始める。ヒンディ教はブラフマンを中心とする宗教だが、ブラフマンのマーヤが生み出すのは現世だけでなく、多様な神々を含むので、ユダヤ・キリスト・イスラーム教徒にとっては受け入れがたい多神教的邪宗ということになる。仏教は釈尊が始めたが、彼は神ではなく修行者である。釈尊が求めたのは悟りの境地だが、仏教には神(もちろん東洋的多神教である)が存在するという考え方と、存在しないという考え方がある。
これも単純化すれば、密教では神を措定し、禅宗では措定しない。ただ肉体的信仰心を外して哲学として考えれば、両者はある一点までは共通している。密教も禅宗も修行によって人間意識の最下層である無まで精神を下降させる。これが悟りの境地と呼ばれるわけだが、仏教では悟りに安住する(できる)という考え方はない。悟りとは正確に言えば、無と現世との往還、つまりたゆみない悟りと迷妄の繰り返しである。釈尊がそうしたように、生涯修行なのである。
また悟りの境地から現世に戻る際に、修行者の精神は、無から現実世界が生成・再構成されていく様をまざまざと見る。密教ではそこに神が介在する。大日如来であり、世界の始まりとして最初に発せられるのが『阿(あ)』音、つまり空海が説く『阿字真言』である。これに対して禅宗は最初から最後まで無を見つめ続ける。漆黒のエネルギー総体である無が分節して世界を現出させ、再び修行によって、華やかな現世が荒涼とした無に戻るのを見るのである。どちらも無を基盤としながら、現実世界創出の構造に違いがあると言える。
徹底して無に留まる禅宗は、現世的秩序を説く儒教に近いものがある。実際、老荘思想は禅宗的教義として捉えることができる。それはなんの幻想もなく現実を見つめ続ける。現実世界の背後には、世界生成の源基ではあるが、荒涼とした無が拡がっていると認識しているからである。これに対して密教は奔放な流出として世界を認識する。プロティノスの流出論に近いかもしれない。大日如来の『阿』音を端緒として、音と光と色と形が世界に溢れ出すのである。密教の中核教典である『法華経』が〝光の教典〟であることは言うまでもない。
俳句が禅宗全盛期の室町時代に生まれたことからわかるように、単純に言えば俳句と密教の相性は悪い。それは冷徹な裸眼で現実界を見つめ、できるだけ感情を排した最少限度の言葉でそれを描写する禅的文学なのである。もし密教を句題ではなく、その精神性として俳句に取り入れようとするのなら、密教の教義はもちろん、その世界生成の仕組みを肉体感覚として養う必要があるだろう。密教的世界流出は神聖なものであると同時に極めて猥雑であり、エロチックなものでもある。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■