
特集は「300歌人の新作&歌会作品集「うたげと孤心2025」」。200ページ近い作品特集で壮観です。「うたげと孤心」は言うまでもなく大岡信さんの著書名。歌合などの熾烈な戦いの場でありお遊びの場でもあった宴とそれとは相反する創作者の孤独について論じた本です。この「うたげと孤心」は俳句でも引き継がれています。ただし短歌と俳句ではその質が違う。それについて考えてゆけば短歌・俳句という日本の伝統形式文学の原理をより的確に把握できるでしょうね。
大岡さんの「うたげと孤心」は名著ですが後進世代はそれを批判的に乗り越えてゆく義務を負っています。大岡さんは大変頭のいい方でしたが創作と批評のラインが曖昧になる傾向がありました。現象分析は的確なのですが原理にはなかなか到達しない。むしろ現象分析を援用して作品から原理を探ろうとした。しかしそれがうまくいったとは思えない。
大岡さんは元は自由詩の詩人ですが少年時代に親しんだ短歌に接近してゆくと自由詩創作の方が崩れた。では短歌・俳句で名歌・名句を残したのかといえばそうは言えない。比喩的に言えば宴と孤心に引っ張られて詩も短歌・俳句も作品像が曖昧になってしまった。なぜそういうことが起こったのかといえば文学ジャンルを越境したようでそれらを完全に相対化できていなかったからです。なし崩し的にジャンルの違いを越えることはできない。
文学ジャンル越境は難しい。徒手空拳のまま見よう見まねで真似してもほぼ100パーセントの確率で失敗するのはこれまでの作家たちの試みでハッキリしています。短歌・俳句に限れば間違いなくジャンルを越境できたのは正岡子規だけです。ではどうすれば越境できるのか。これについては原理を把握するしかありません。何が短歌や俳句の原理なのかを認識把握しない限り越境は不可能です。独力でそれを為せば結構なことですが誰かが理論的に論証すればそれが突破口になるでしょうね。
もちろんどのジャンルでもジャンル越境など考えていない作家が大半だと思います。しかし現代は高度情報化社会です。高度情報化社会のプロフェッショナルはそのジャンル全体に精通している者のことです。当たり前ですね。情報はリゾーム状に繋がっておりその求心点として知を構築することが求められているのですから。文学に即していえば専門ジャンルがあるにせよ文学全般に対する知見がなければプロの名に値しない時代が必ず来ます。出版界の斜陽化と反比例して必ずそうなる。
短歌・俳句の作家さんたちはそれこそ宴とか座など同好の士の集いに参加していれば大きな社会の流れから無縁でいられないことはありません。結社を作って結社員をテイクケアして一生過ごすのも伝統文学者としての一つの在り方です。
しかし自己が関わる文学ジャンルを相対化できなければ情報に振り回され道を逸れてしまいます。例えばニューウェーブ短歌はすでに斜陽期に入っています。いっけん前衛的に見えないことはありませんがほとんどが下手くそな一行の現代詩です。安西冬衛くらいの一行詩を書くことができれば目出度いですがお目にかかったことがない。どんどん短歌の原理から逸脱している。このままだと短歌原理を押さえた一握りのニューウェーブ歌人を除いてほとんどの歌人はキレイさっぱり歌史から消え去るでしょうね。極端な踏みはずしが起これば必ず反動が来る。そうなれば原理のない短歌モドキは必然的に忘れ去られる。
花大根咲く道しつぽを上げてゆく猫は光れり恋のするどさ
花大根に沈める猫の声しろし「初学百首」の春もかすみて
のらばう菜やはらにうまし杏の花咲けばみなは集ひうたげす
ミートペンネなどを食べつつひとりゐる老人に過ぎし春の百たび
会食の昼の陽のなか匙ひとつ落ししギニョールの指はわれなり
流れ星になる夢にいつかなるやうな寂しさがある寒い春の夜
降り出した雪に小鳥は遊びゐて凍てし葉の雪をふとも啄む
初雪のはだれに椿食みこぼしひよどりのまた戻り来る
ぼうたんの雪のいただき指をもて払へばほのけき蕾生れゐつ
春の顔洗へど何か新しくなることもなし彼岸近づく
馬場あき子「しつぽを上げて」作品十五首より
息子って腹ぺこの時が可愛いなキャベツとしらすのペペロンチーノ
「体調が悪い!」と腹から声を出し生き生き愚痴る八十路の母は
お迎えがなかなか来ないと腹を立てついには神の怠惰責める
瓢箪のくびれ優しく鈴なりの思い出話す父の居室に
マンションの窓から見える木のあたま爪先立ちで春が近づく
咲きかけの「かけ」を味わう早春の桜は目黒に限らないけど
目が合って指2本立てたその後に「何名ですか?」と聞かれておりぬ
くちびると花びらに春は奏でられ一生食べてられるお団子
一枚の布が崩れて浮くように向かいの屋上から羽ばたけり
今日母にぶっきらぼうにしたことをいつか後悔する木の芽どき
俵万智「春のつまさき」作品十五首より
特集の巻頭は馬場あき子さん俵万智さん穂村弘さんのお三人。ほかの197人ほどの歌人の作品はあいうえお順に掲載されています。言いにくいですがこれが今の歌壇のいわゆる〝序列〟です。巻頭の三人は十五首掲載ですがそれ以降は七首。十五首でも七首でもそれについて決定的批評を下すことはできません。作品集として上梓されるまで判断留保です。ただ短歌の原理がよく表現された歌です。
短歌は「わたしはこう思うこう感じる」の自我意識表現です。これを逃れることは絶対に出来ません。この〝私〟の世界に他者が紛れ込んでくる。馬場さんは「のらばう菜やはらにうまし杏の花咲けばみなは集ひうたげす」俵さんは「今日母にぶっきらぼうにしたことをいつか後悔する木の芽どき」と表現なさっています。
残された歌は少ないですが『万葉』の昔から歌人たちは日常的に膨大な歌を詠んでいたはずです。そのほんの僅かな歌が勅撰歌集に採られ家集にまとめられました。それは『源氏物語』などを読んでもわかります。『源氏』に秀歌はほとんどありません。相聞歌であり本来なら消え去ってしまう歌だからです。ただ秀歌・名歌はその延長線上にあります。
歌が〝わたしの自我意識表現〟である限りそれはある意味〝物語の初源〟です。私という物語がある瞬間に鮮やかに表現される。そして歌人の思想と感情が研ぎ澄まされた人生のある時点で秀歌・名歌が生まれる。この極点は時にわたしの自我意識を相対化する歌へと抜けます。「初雪のはだれに椿食みこぼしひよどりのまた戻り来る」(馬場あき子)や「一枚の布が崩れて浮くように向かいの屋上から羽ばたけり」(俵万智)といった客観風景描写です。すぐれた叙景短歌は歌人の強烈な自我意識の裏返しです。そうでなければ読者の心を打たない。
定型なので歌人たちは宴を催すことができます。しかし俳句の座とは違います。俳句は非―自我意識表現であり原理は日本の循環的かつ調和的世界観を正確に〝写す〟ことにあります。自我意識は邪魔です。可能な限り自我意識を希薄化する必要がある。俳句の座が笑いに満ちたお遊びの場であり滑稽と紙一重である理由です。座は即詠によって自我意識を超えるのを目的としている。俳句の不幸は近代以降に俳句を自我意識文学だと誤認したことにある。いわば俳句が短歌化してしまったのです。
短歌は〝わたしの自我意識表現〟ですから宴は自我意識の表現方法を競い学ぶ場です。俳句と違ってお遊び要素は少ない。型に沿って無限に自我意識を分節表出する方法を生み出すために他者との宴が催されたと言っていい。〝わたしの自我意識表現〟というより歌人なら〝わたしそのもの〟である歌が相対化され新たな表現の道筋を得るために宴はある。
乱暴な言い方ですが寡作の歌人は問題がある。自我意識から客体化に抜けるのが短歌の原理でありその逆ではないからです。折々に歌を詠み散らすことで主体から客体への道が拓ける。自由詩は日本文学における前衛をそのアイデンティティにしています。世界の変化をいちはやく感受してそれを言語化するわけです。その意味で自由詩で修辞は非常に重要です。新たな表現を生み出さなければ自由詩の世界で秀作・傑作と呼ばれることはない。しかし短歌は違います。修辞を模索すればするほど間違いなく短歌は隘路に迷い込み歌人の自我意識表現を阻害してゆくはずです。
鶴山裕司
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