一九八〇年代頃までは、日本の小説は「純文学」「中間小説」「大衆小説」に区分されていた。その定義は作家や批評家それぞれだが、いかにも整理整頓好きな日本人らしい区分である。もちろん海外でも作品掲載誌や作家の創作スタンスによって、純文学と大衆文学(作家)という区分はある。しかし発表当初から純文学だと認知される作品は少なく、時間をかけて評価が定まることが多い。

 どの国でもまったく売れなかった(話題にならなかった)作品が、純文学や大衆文学という俎上にのぼること自体稀である。ただベストセラーだろうとそこそこしか売れなくても、小説で描かれた風俗・事件等々が古びても、普遍的な何事かが的確に表現されている作品が純文学だと認知されてゆく。バルザックやドストエフスキーは流行作家だったが、彼らの中で読者を楽しませようという指向と、作家としての表現欲求は矛盾なく同居していた。夏目漱石は大衆を読者として、常に反響を気にかける新聞流行小説作家だった。

 ただ日本ではいまだに芥川賞作家=純文学、直木賞作家=大衆文学という不文律的区分が存在する。もう少し露骨に言えば、辛気臭い私小説的純文学ばかり書いていたのでは食えないわけで、純文学作家という看板を背負った作家でも、より多くの読者を求めて通俗的小説を書き始めるのは自然な流れである。つまり三島由紀夫や遠藤周作といった芥川賞作家が通俗小説を書けば、それは中間小説となるわけだ。日本の小説界では芥川賞作家=純文学(作家)を頂点(最も高位の文学)として、中間小説、大衆文学という区分がうっすらと成立していた。

 もちろんこれは現実制度的な分類であり、松本清張や有吉佐和子らがいまだに読み継がれいてるのは、彼らの作品に決して古びない純文学的要素があるからである。現代では夢枕獏や江國香織らが高い純文学的要素を持った大衆作家だと言える。また現在、日本の純文学を代表する作家は村上春樹であり、彼はほとんど日本の文壇と接触を持っていない。しかし日本の文学界(読書界)では、いまだに芥川賞=純文学、直木賞=大衆文学という区分――もっとはっきり言えば、文藝春秋社が長年の努力で積み上げてきた文学区分が根強く残っている。

 この現実制度は、もちろん出版側と作家側が強依存関係で作り上げてきたものである。また現在日本の文学界(読書界)では、特に純文学作家の現実制度への寄りかかりが強まっている。純文学作家はほぼ完全に作品(本の出版)では食べられなくなっている。芥川賞受賞で純文学作家というお墨付きでももらわなければ、作家としての社会的地位すら危ういのが実際である。芥川賞受賞会見で大喜びしている作家を見ると悲しくなることがある。もしかするとそこが作家としての頂点であり、後はないかもしれない。中間小説、大衆小説へと表現の幅を拡げ、したたかに生き抜いてゆく純文学作家が少なくなっているのは事実である。

 本題に戻ると、大衆文学は〝物語〟である。人間は物語がなければ生きてゆけない。テレビドラマ、映画、演劇、ゲーム、小説は常に物語を必要としている。人間のエンターテイメント要素は、何らかの形で物語とつながっているわけだ。個々の人間はそれまで生きてきた強いコンテキストに縛られている。実際に詐欺や殺人に手を染めるのは絶対タブーであり、車のディーラーやショップ店員がいきなり会社社長や銀行マンになることもできない。しかし物語の中で禁忌を犯し他者の人生を生きることは、人間に生きてゆく上でのヴィジョンを与えてくれる。英雄譚や悲劇・喜劇として、太古の昔から人間は物語を糧としてその内面を育んできた。小説はこの物語を、基本的には文字という伝達媒体だけで作り上げる。

 当然、物語には様々なレベルが生じる。大衆小説誌に掲載されている小説は、たいていがどこかですでに読んだ物語の亜流である。未知の業界小説は〝情報〟としては新鮮だが、読者がそれを咀嚼してしまえば一時の新し味として終わってしまう。しかしいつの時代でも小説の大半を大衆文学が占めることからもわかるように、物語が小説文学の中核である。文学にはジャンルごとに掟がある。ほとんどの純文学的前衛小説は物語の解体を目指すことが多いが、それもまた一時の新し味で終わるのが常である。

 では大優れた小説=物語とはどういった質のものなのか。素朴な言い方になってしまうが、小説のレベルの高低は、作家の〝本気度〟にかかっていると言うしかない。ドストエフスキーの『罪と罰』は、レジュメすれば「金貸しの老婆を殺し、その罪の意識にさいなまれる青年の物語」である。遠藤周作の『沈黙』は、「キリスト教禁教の徳川時代に、棄教を選択した宣教師の物語」ということになる。プロット自体は通俗小説になり得るものだ。しかし作家が物語にこめた高い観念が通俗的物語展開を超越している。

 つまり小説=物語と定義すれば、日本的な純文学と大衆文学の定義は微妙に変わってくる。小説家は物心ついた時から小説家になろうと志した人が多い。そのため小説業界あるいは文壇を〝世界〟だと認識しがちだ。文壇が世界なら、小説の大半を占める通俗物語に物足りなさを感じる作家が起承転結の一般的な物語展開を嫌い、物語の解体をも指向するようになるのは自然なことである。しかしそれを突き詰めれば小説は、詩のような非物語文学ジャンルに近づくことになる。

 それはそれで重要な作業だが、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』のように物語の完全解体は小説文学のデッド・エンドである。その先はない。マルグリット・デュラスのように、底にたどり着けば物語に回帰するほかない。日本では俳句文学が高柳重信らの前衛俳句派によって様々な形でその解体が試みられたが、本質的に有季定型が俳句文学の中核であり続けるのと同じである。

 ただ通俗的物語展開を嫌う作家を、微妙な形であれ、アプリオリに〝純文学作家〟と見なすのはあまり健全ではない。物語の完全解体にまで足を進めた作家はほとんどおらず、たいていは私小説的な、物語があるようなないような中途半端な小説を書いている作家がほとんどである。物語に逆らっているようでいて、純文学的〝制度〟に従順で守られているから前衛文学としても大衆文学としても中途半端な作品になってしまう。物語を完全解体すれば小説家は必ず物語の方に戻ってくる。解体が甘いのだ。

 もちろん大衆小説作家も制度と無縁ではない。たいていの大衆小説作家は、小説などこんなものといったスタンスで水戸黄門的クリシェ小説を量産している。純文学作家との違いは大衆小説作家が読者を抱えており、経済的にも読者からの反応という点でも、ある程度は満たされた作家生活を送っているということだろう。ただし多くの大衆小説家は労働者である。最低でも月産三百枚くらい書かなければならない。日本的な文学制度かもしれないが、これはこれで厳しい。しかし真正面から物語を中核に据えた大衆文学は強い。

 純文学と大衆文学の違いは本質的には物語の質的高低である。純文学系作家は時には物語の解体をも視野に入れて形式的にも内容的にも新たな小説を生み出そうとし、大衆系作家はアプリオリに物語を中軸に据えて、従来とは異なる物語を生み出そうという指向を持っている。純文学的アプローチをするのか、大衆文学的アプローチを取るのかは作家の資質次第である。どちらの方法でも優れた小説は書ける。

 もちろん現実は絶対に無視することのできない強い枠組みとして存在しており、作家が既存の純文学や大衆小説といった制度に沿って作家活動を開始するのはごく自然である。しかし純文学と大衆文学は制度的に区分されるものではない。物語が到達したレベルが純文学作家と大衆文学作家を分ける。

 日本に限らず世界中で小説本は売れなくなっている。売れない、読まれないことほど作家にとって辛いことはない。そのため作家たちは小説文学の本質を見極め、読者を取り戻す努力を求められている。日本では「中間小説」という概念がほぼ消滅したが、それは「純文学」と「大衆小説」の制度的区分が曖昧になっているということである。

 物語の力は強い。優秀な作家が大衆文学的な物語の力を援用しながら、自らの表現欲求を満たす純文学作品を目指すのは当然のことだ。現実文壇制度に属しながらそれを為す作家もいるだろうし、確信的に既存文学制度を脱構築する作家も現れるだろう。この流れは今後さらに加速するはずである。

斎藤都

 

 

■オール讀物(文藝春秋社 月刊)とは■

 いわゆる大衆文芸誌のコンセプトは、私には見えづらい。ただ、オール讀物は、その中でも完成度の高い作品が集合しているとは、衆目の一致するところらしい。

 完成度を高めているひとつの方法論として、連載でなく、読み切りの作品を多く集めていることが挙げられる。

 これは初代編集長の永井龍男の復帰以後という、かなり初期からの伝統といえる路線だ。一作品の短さ、また同じく初期から大衆作家のほか純文学系の新人にも執筆を依頼していたことから、純文学との重なり合いが考察される。

 つまりはエンタテインメントを主眼とするものであれ、難解もしくは高尚なものであれ、「短く」あることは何らかのエッセンスとして抽出されたものというべきだろう。

 直木賞、芥川賞を主催する文藝春秋社が版元であり、これもまた、文學界とともにオール讀物が「文壇」そのものであると端的に示している。

 だが日本の文学の現状において、文壇と呼ばれるものとは、果たして何なのだろうか。純文学については、その特異な文学形態の保護システムとして定義される(文學界の項、参照)が、大衆文学における文壇なるものは捉えにくい。

 日本において、また世界的にも「大衆」は消えつつある。小魚の群れのように同じ向きへ方向付けられた無邪気な「大衆」は、少なくとも先進国では滅びたといえる。

 では、ひと昔前には「大衆」は存在したのか。オール讀物は、その大衆に向けて「文学」を提示していたのか。語義矛盾だろう。今も昔も「文学」を解する知性を持つ人々が、真性の「大衆」だったことはない。

 だとすれば、大衆文学という語に含まれる「大衆」とは、いわゆる大衆を示すのではなく、そこにある文学がエンタテインメントを主目的としていることを示す形容詞となる。

 文学においては大衆と選民がいるのでなく、同じレベルの「読者」がエンタテインメント的な心情になったり、高尚なテクストに触れたりしているのだ。「文壇」とは、それら同じレベルの読者に対して、二つの側面からの品質保証を行なう機構である。

 金魚屋プレスがオール讀物に期待することは、いわゆるオール調と呼ばれる雰囲気こそが文学にとっての高品質であると、これまで以上に確信的に証明してもらいたい。

 短いエッセンスが、純文学の「私性」とは逆の方向、すなわち社会的成熟に向かうとき、軽妙洒脱さそのものとなるのだと定義付けられれば、それこそが日本社会の本質の定義ということになるだろう。

 

 

■別冊文藝春秋(文藝春秋社 隔月刊)とは■

 誌名とコンセプトのギャップが面白い。文学をも社会化するようなあの文藝春秋の別冊が、若手作家の連載を中心とする小説誌だとは、名前を聞いただけでは誰も思うまい。文藝春秋臨時増刊と間違えそうだが、表紙の雰囲気はやはり違う。「弁当箱のようなフォルムをラブリーな表紙絵に包み」とは編集部の弁だ。

 そういった文芸誌は他社がよりポップな誌名で刊行しているが、別冊文藝春秋という重厚な誌名で臨むあたりにセンスが光っている。もっとも実際のところ、文學界とオール讀物、文藝春秋社を代表するこの二誌がカバーしていない「若手」「長編」「連載」「純文学とエンタテインメントの垣根を越えた」といった要素をすべて集めて一括りにしている。その意味でまさしく「文藝春秋」社の雑誌、という自己規定は正確である。

 ひとつの感として、もはや出版社ごとの棲み分けなどしていられる状況ではないということだろう。マーケットは薄く拡がり、出版社は自らの触手をも大きく拡げ、取りこぼしのない体制を作っていかなくてはならない。それについて率直に認め、それでも品位を失わないでいられる、横綱相撲の風格を漂わせている誌名でもあろうか。

 一方で、連載主体の雑誌が隔月刊というのは難しくはないか。二ヶ月前の内容を思い出して続きを読むというのは、なかなかしづらいことと思えるが。

 もし文芸誌そのものの役割を、単行本が発行されるまでの広報ツールとしてのみ考えるなら、読者が継続して作品を読めるかどうかはあまり重要ではないかもしれない。が、もし二ヶ月の間、読者を雑誌カルチャーや作品世界に繋ぎ止めようとするなら、補完的なものとしてWebの活用も考えられる。

 今のところ別冊文藝春秋は、そういった方向でのWeb利用を積極的に行っている様子はない。それは文藝春秋という雑誌本来の持つ重厚さが腰の重さとなっているのか、あるいはWebでの楽しみ方を心得ているような人々はそもそも文芸誌など買わないと、マーケティング分析されているのか、さだかでない。

 一般の文芸誌でも言えることだが、単行本になってから読めばよいものを、わざわざリアルタイムのジャーナルとして買う読者というのは、かなり特殊な層だろう。二ヶ月に一度というのは、普通の単なる読者なら連載物の内容を忘れそうだが、じっくり研究して繰り返し読むとすれば、よい刊行ペースではなかろうか。

 別冊文藝春秋は新人発掘プロジェクトと称して、新人賞によらない原稿募集をかけている。新しいやり方のようでいて、旧来の持ち込みと変わらない。出版社としては賞金も要らず、賞を与えた責任や掲載の義務もない。本当のところ、欲しいのは別冊文藝春秋に連載されているような長編エンタテインメントを継続的に書ける作家だろうが、確かにそれは新人賞ひとつで出来上がるものでもない。応募資格は35歳以下、なぜかデータでのみ受け付けというのが新しい。

 金魚屋プレスが別冊文藝春秋に期待することは、このプロジェクトで応募されたデータ原稿に、編集者が直接、手を入れて指導することだ。それは新人発掘のプロセスを一層合理化すると同時に、編集者の職能も厳しく問い、磨くことになるだろう。

 

 

■小説新潮(新潮社 月刊)とは■

 小説新潮は、中間小説誌としてのスタンスに、ごく当然である苦悩の跡、言い換えれば良心がかいま見える。

 オール讀物のような中高年をターゲットとする作品完成度至上主義でもなく、小説現代のような手広い効率性も追求しない。文学や芸術といった縛りを保ちつつ、わかりやすさを付加した、という曖昧な自己規定と見える。

 創刊当初の座談会タイトル「天皇陛下の御前に文芸を語る」(齋藤注・「文学」ではなく)や、創刊の辞に続く「大衆文学とか純文学ということばはもうなくしていいと考える」といった言説は、小説新潮の自己規定の苦悩の跡のように読める。

 安定したバランスを求める結果として、日常的には「大衆的」な生活をおくりつつ、どこかで「(純)文学的」なるイメージを信仰する、ということになる。

 「文学的」イメージというものはしかし、実際にはごく大衆的なものだ。ロマンチックな文学者の像が、しばしばテレビドラマに登場することでもわかる。

 小説新潮の有名な巻頭グラビアは、しかしそのような文学的アトモスフィアで「大衆」を幻惑するために掲載されたのではないだろう。バー「ルパン」での太宰治、散乱した紙屑の中の坂口安吾の写真など、誰でも一度は見たことがあるのではないか。それは確かに、その時代には現実の一コマだった。

 小説新潮の苦悩は、そのような「文学的なるものの像」が、すでに通俗なアトモスフィアとしてしか存在していない現在にある。かつて坂口安吾の「安吾捕物帖」、井上靖の「風林火山」、松本清張の「張込み」が掲載された時代には、エンターテイメント作品であれ、真の傑作には必ず文学的なるもの、芸術の神が宿っている、と胸を張って言えたはずだが。

 もしかすると、そのような苦悩の結果なのだろうか、小説新潮は多くの文学賞に関わっている。山本周五郎賞、新田次郎文学賞、新潮エンターテイメント大賞、女による女のための R-18文学賞、日本ファンタジーノベル大賞など。賞は確かに、日常的なものをある瞬間、「文学的な像」へと引き上げる。

 金魚屋プレスが小説新潮に期待することは、そのような「文学的な像」を必要としているターゲットを明確にしてほしい、ということである。かつての文学青年である中高年層なのか、悩み多き中高生なのか、恋を夢見る乙女たちなのか。あるいは、それらすべての年齢層に薄く広く存在するのか。彼らはただ単に、マスコミの作った文学的幻影を信じやすい、時代に取り残された人々なのか。だとしたら、「文学的なるもの」、あるいは「文学」そのものすら、すでにどうしようもなく時代遅れなのか。

 それを明確にすることは、ある種の恐ろしさもある。が、その作業を経ないかぎり、小説新潮の苦悩、そして私たちの苦悩もまた続く。

 

 

小説現代(講談社 月刊)とは

 日本にはかつて中間小説と呼ばれるジャンルが存在した。現在ではその呼び名は使われることはなくなった。純文学に対して大衆文学があり、その中間的な小説群がある、という構図がなくなったからだろう。

 現在の日本では、純文学と呼ばれる特殊な文学作品の島を、それ以外の「普通」の小説作品の海が取り囲んでいるかのようだ。「普通」の小説は、ミステリー、時代物、恋愛物とジャンル分けされ、それらジャンル相互間の「中間」は意識されるが、純文学という特殊な島との距離を測る必要性は感じられなくなっている。

 小説現代の版元である講談社は、その名が示す通り、もともと大衆性をターゲットとした出版社であると推察される。文藝春秋社、新潮社とは会社の規模も異なっている。

 小説現代は、1901年(明治44年)から続いていた大衆小説誌講談倶楽部に代わって創刊されたものだという。大衆小説誌をややハイブラウにしたという意味での中間小説誌であり、純文学をポピュラーにしたものではなかった、という経緯が感じられる。

 つまりは純文学との距離を測ろうとする意図を最初から欠いている、ということだ。文学の観念的なイメージに縛られることなく、「中間小説誌」という雑誌そのもののイメージが先行する形で創刊されたことは、後の成功をもたらした遠因ではあるだろう。

 六十年代にはオール讀物、小説新潮の売上げを上回り、この頃に創刊された中間小説誌は、多くが小説現代に似たスタイルと言われたという。すなわち小説現代は多くの亜種を生んだということになる。

 亜種を生んだ豊穣さは、雑誌としてのものである。雑誌媒体を遊撃的に活用し、さまざまなタイプのシリーズ化を推し進めることで、自在かつ効率的にマーケットを攻めていった。読み切りで作品完成度を上げてゆくオール讀物とは反対の路線にみえる。

 そのような自在さは、掲載される作品に関し、文学概念に照らしてこうあるべきといったレベルの観念、また純文学とは何であるかとか、どこまで大衆性にすり寄るべきとか、そういった思考の縛りがないところに生まれるものだろう。

 金魚屋プレスが小説現代に期待することは、このような効率化を徹底することで、小説現代自身にもっと節操を失ってもらいたい、ということである。効率化を徹底することで、むしろ効率化できない何かが見えてくるだろう。大企業である講談社には、どこか大企業らしからぬ、変なこだわりが覗く瞬間もあるように思えるのだ。小学館などと違う、面白いところだ。

 マーケットの可能性を探り、出版形態の多様性をも探っている講談社は、小説現代の社内「亜種」として、推理小説を中心とした小説現代増刊 メフィスト、ライトノベル系雑誌として小説現代増刊 ファウストといった雑誌を生み出し、また独立させている。

 これらの雑誌の形態は実際、ラディカルな面を持つ。効率的なマーケティングと言い切れない、何かを示してもいる。ならばその親である小説現代も、たとえばそのお家芸であるシリーズ化について、そろそろ新たに、より現代的で思い切った試みをしはじめてもよい頃ではないだろうか。

 

 

■小説すばる(集英社 月刊)とは■

 小説すばるは、あの「中間小説誌」という古めかしい概念を別の軸にずらした、という新しい意味での「中間小説誌」だろう。

 それは世代であり、成長という軸である。すばるが純文学雑誌として、「若さ」をテーマにしているのに対し、小説すばるはそこからの成熟をターゲットにしている。

 とはいえオール讀物のように、すでに完全に成熟した精神を読者としているわけではない。「成熟しようとする意思」がテーマだというべきだろうか。純文学雑誌すばると、とても紛らわしい小説すばるという雑誌名は、理由があるように思える。

 各号の特集の設定の仕方を見ると、作家たちの方はすでに成熟しており、読者をそれへと導くというスタンスであるようだ。表紙もたとえばオール讀物のようではなく、いまだ若々しい雰囲気が漂っている。

 確かに文学が人間の営為である以上、精神のあらゆるフェーズに対するテーマ設定が可能だと考えられる。

 私性に対する社会性、前衛性に対する大衆性というのと同様に、若さに対する成熟性という設定はあり得る。その「中間」としての成熟過程誌、というのが「中間小説誌」である小説すばるだ、ということだろう。

 金魚屋プレスが小説すばるに期待することは、そのような若さと成熟、そして小説すばるが受け持つ成熟過程というものが、文学的営為にとって、どのように本質的であるのかを明らかにしてもらいたい、ということである。

 小説すばるの編集方針を見るかぎりにおいては、読者に成熟をうながしていると思われる。そして純文学雑誌すばるにおいても純文学が若さの文学であると定義されているとすればすばるの項、参照)、この二誌にとっては、人はいつか純文学を卒業するものだ、ということになろうか。

 しかし日本の特異な文学形態である純文学=私性の文学(文學界の項、参照)は、本来的に「卒業」するようなものではない。そのような私性を「子供っぽい自分中心主義」といったふうに限定的にとらえるなら、別だが。

 だとすれば、ことは私性そのものの解釈を問うことになる。小説すばるにとって、私性とは何か。そこから脱却する成熟を目指すことが文学そのものであるなら、すべての文学はビルディングス・ロマンということか。

 一生懸命に本を買い、読んでくれる層が受験を控えた子供たちとその両親しかいないのでは、という悲観的な見方がある。本を読む必要に迫られている人々、という意味では、そうかもしれない。

 必要に迫られる、とは、成長を迫られている、というのと同義だ。成長を拒絶する私性とは、あらゆる必要性を排除した、無為そのものであることを目指す何かだろう。

 小説すばるには、ただ一度、文学とは何か、を真正面から特集してもらったら面白い。

 

 

■小説宝石(光文社 月刊)とは■

 小説宝石を手にするとき、日本人、日本社会の律義さを目の当たりにする。今、日本の小説誌のサンプルとして一つ挙げよと言われれば、小説宝石とすべきだろう。

 日本の文芸誌は現在、オール讀物に至るまで赤字だという。それでも発行され続けているのは、単行本原稿の確保とペースメーキングのためということだ。しかしそれはいささか不合理ではないか。

 単行本については書き下ろしであることを大々的にうたう場合があり、雑誌に小出しに発表されていたことは必ずしも読者にアピールするものでない。書き下ろしの間、出版社は著者との接触を保つことができるのだろうから、書かれた端から発表しなくてはならない理由はない。

 もちろん、雑誌読者を介して少しずつ期待を高める効果は考えられるが、雑誌発行部数が落ち込んでいるからには広告としても機能しない。雑誌発行の経費をそのまま広告費にまわす方が効率がよい。

 では、そもそも文芸誌は何のために創刊されるのだろう。利益が出なくとも採算がとれるのであれば、著者の確保と広告を兼ね、賞などのイベント企画の受け皿として、出版社のプレステージを高めるということも考えられる。だが本当のところ、雑誌だけが出版社の創作物だ、ということが大きいのではないか。

 どんなものであれ、創作物には「中心」がなくてはならない。雑誌にとってそれはジャーナルであろう。ジャーナルとは「現在」への視点、批判意識であり、それへのスタンスの取り方の表明である。とすれば、今の雑誌カルチャーの低迷は、売り上げ部数の低迷と同一視されるものとはかぎるまい。

 雑誌といわず単行本といわず、売り上げが落ち込む中、出版社員にも生活があり、まずは自分たちの給与やポストの維持が一番の関心事となってきているだろう。かつて出版社はよい本を出すツールであり、著者と読者を繋ぐメディアだったのが、いまやあまり実体のない、職能があるかどうかわからない職能集団となり、その肥大化した組織を維持するためだけに汲々としているという。また読者は単なる客で、著者はすでに外注のライターとして扱われている、とすら。

 それぞれの雑誌を眺めれば、しかし少なくとも表面的には、それほどひどい状況と思えない。各雑誌ともに「現在」への相応の視点なり、ポリシーなりを有しているように見える。それが錯覚であり、限られた読者のパイに対する、隙間的なマーケティングに過ぎないものだとしても。

 だが小説宝石は、そういった一時しのぎのポリシー、意味のないプライドは持ち合わせず、これまでの出版界における小説誌としての形式をただきっちりと踏襲する。未練がましく自らの視点に拘泥する身振りはない。金魚屋プレスは小説宝石を見続けてゆくことで、日本の文芸誌の真の「現在」が鏡に映るのではないか、と期待している。

 

 

■小説野性時代(角川書店 月刊)とは■

 角川書店は面白い。最初はとても堅い本を出す出版社としてスタートし、辞書や俳句関係など「日本語」の基盤を形づくるようなもので知られた。その後、トップが創業者から変わったこともあろうが、70年代から80年代にかけて映画などに乗り出して、出版との相乗効果を狙ったメディアミックスと呼ばれる戦略に出た。今となっては当たり前になったやり方だが、当時は斬新で思い切ったことだったろう。

 その角川書店は、硬派であった創業時代と、エンタテインメント路線を敷く現在との距離感を、伸ばしたり縮めたりしながら現在に至っているように感じる。

 一見すると、それは天と地ほどにも違う。が、あくまで「手堅く」商売しようとした結果だと思えば、さほど差はないのかもしれない。余談であり、また人づてに過ぎないが、角川書店は編集部でも朝は9時から、タイムカードを押すのだと聞いた。

 ビジネス的なクライテリア(基準)を採用すれば、辞書編纂と大衆路線にさしたる違いはない。天と地ほどにもその差を感じるのは、精神的・文化的なクライテリアに照らした場合だけだ。

 角川書店はその二つのクライテリアが作り出す価値観の揺れに、ときに迷い、ときには自ら眩惑されようとしているようにも思われる。オールマイティの幻想を見切るだけの計算がしっかり(しすぎるほど)できているにもかかわらず。

 小説 野性時代もまた、その誌名と現在の編集方針とのギャップをあえて生きるかのようだ。小説 野性時代には「新たな物語を読みやすい大きな文字で」と銘打たれている。このような至れり尽くせりと「野性」とが相入れないなどということは、当の編集部もわかっているに違いあるまい。

 だがそもそも、「読書」と「野性」も一般にはあまりそぐわない。ある時代には、野性時代という名は文字通りに時代の雰囲気を表していたと聞くが。メディアの垣根を乗り越えて、雄々しく大衆を漁りに向かう出版社の気迫をも。

 金魚屋プレスが小説 野性時代に期待することは、もはや時代の風を受けられない今こそ、野蛮なまでの知性、とはどういったものかを示してもらいたいのだ。

 それが「読む」という受け身でなく、「書く」という能動に結びつくのは想像に難くない。ただ「辞書の読み方」や「エロスの書き方」、「作法」「思考法」「奥義」といった、書き手志願者をターゲットとした特集アイテムの至れり尽くせりは、すでにワイルドさを放棄している。

 読者と書き手志願者の集団がほとんど重なっている現在ではあり、ビジネス的には堅い路線を旨とする角川書店ではある。しかし、野性時代という誌名をあえて踏襲する編集部なら、もっともっとおぞましく戦略的に、野性味を感じさせることができるのではないか。

 

 

■紡(実業之日本社 年三回刊)とは■

 日本には少女小説というジャンルがある。『宝島』『十五少年漂流記』といった少年小説はよく見られ、その少女版としての『長くつしたのピッピ』といった児童文学は海外にもあるが、いわゆる少女小説という独立したジャンルは日本以外では例がないのではないか。

 そのピークは戦後の少女雑誌、ひまわりの刊行時期と考えられる。中原淳一の挿絵とともに、その時代の少女らは、ひまわりの短篇小説に描かれたウェットな感情の交流に夢中になったという。

 雑誌 紡は女性をターゲットとした文芸誌の中でも、かつてのひまわりと重なる読者層を想定しているようだ。紡が表紙に中原淳一の挿絵を使って話題になった、ということもある。

 もちろん今の時代において、少女小説誌にかつてのような盛り上がりを期待することは難しい。少女小説の読者層は少女漫画のマーケットへと移行したが、その少女漫画は極端に言えばアートとポルノに二分化した。少女小説がターゲットとすべき読者層はその隙間をすり抜け、さらに年齢層としてはライトノベルと児童文学の間という、極めて細分化された部分へと篩にかけられてゆくことになった。

 そのような少女小説を精密に定義することは、なかなか厄介である。ポルノに陥らない恋愛小説は、女性をターゲットとしたものとして不変のジャンルだが、女の子は恋ばかりしているとはかぎらない。否、恋ばかりしているのだが、男の子にばかり恋しているとはかぎらない。

 もし女の子たちが恋をしないなら男の子と同じことで、少女小説とは言えない。女の子であるからには恋をするのだけれども、それは世界そのものが相手であったり、自我に近い存在であったりする。そういった「感情教育」を通して女の子は成長してゆくのであり、男の子のビルディングス・ロマンとは異なる。

 毎号、紡の表紙に示されているテーマは確かに、この女の子に特有の成長のあり方を示している。恋愛に似た感情に溺れることは一種の停滞であって、紡はそれを許さない。紡の女の子たちは感情の揺らめきを通して、世界を把握することを課されているかのようだ。

 そういった少女たちは、特に現代においては理解されづらい存在かもしれない。鋭い知性でアートに走ってみせることも、ポルノへの好奇心を剥き出しにすることもない、時流の隙間に落ちて取り残された女の子たち。だが、いつの時代にもそんな女の子たちはいて、本に夢中になるのは彼女たちではなかったか。理解されようとされるまいと、それが存在することは否定できず、ならばマーケットはあるということだ。大多数を中心としたメジャーな解釈を介しては、どうにも理解不能なこともある。

 かつて小林秀雄は、雑誌ひまわりに描かれた少女たちの世界に激怒したと言う。大人げなくもあり、首を捻らざるを得ないが、おそらくその怒りはそこに漂う同性愛的なものに対してであったろうと推測される。無論それは真性のものではなく、少女たちの自我を確立する過程における通過儀礼に過ぎない。いずれ風紀を乱すほどのものではないのだ。

 大の男が許せないのは、そのようにあやふやで何の役にも立たないように見えるものが、それでもなお存在している、ということかもしれない。近代的自我を確立しようとしている知性にとっては、無知蒙昧の女の子の自我など苛立たしく、片腹痛いことだろう。それはモダンの精神にとってプレ=ポストモダンが苛立たしく、無用の盲腸のごときものであるのと似ている。

 金魚屋プレスは紡に、さらに我々が理不尽な怒りを爆発させるまで、もっと苛立たせてほしいと期待する。そこには必ず勝機があると思える。

 

 

■読楽(徳間書店 月刊)とは■

 これも今年 (2012年) からのリニューアル雑誌である。これまでは問題小説という雑誌名で、1967年創刊の伝統ある雑誌だったようだ。それをなぜ誌名を変えるほどのリニューアルを施すことになったのか。

 金魚屋プレスとしては、新雑誌にはすべて期待したい。雑誌とは工夫次第で何でも入る器である。つまり発行する側の意識・認識によっては、どんな状況も打破できる可能性を持っている。とりわけわざわざ新創刊・大改変するからには、そういった状況の打破に通じる何らかの勝算があるに違いなく、またあってしかるべきである。

 しかし一方で、読楽といった誌名はどこか、新幹線の座席の背に挟まれた無料配布のカタログやミニコミを思わせる。インパクトという点については、問題小説の方がずっと勝っている。この優れた、なおかつ伝統ある誌名をなぜ捨て去る必要があったのだろうか。

 問題小説の発刊は、アサヒ芸能社が徳間書店と合併した年であり、もとは成人男性向けであったという。したがって官能小説、アクション小説などが目立ったろうが、昨年末までの問題小説を見るかぎり、たとえば女性が手に取るのを憚るといったところまでは行かない内容だ。そういったイロモノ特集はむしろ一般向けエンタテイメント誌において、思い切って組まれていることも多い。

 読楽はしたがって、問題小説を内容面で大幅に改変したものでは必ずしもない。「ミステリー、恋愛、サスペンス、チャンバラ。1冊に夢の世界がぎっしり詰まった小説誌」とあり、成人男性向けからだいぶニュアンスをずらしてはいるが。

 読楽の紹介は「最終ページを読み終えたときの胸を打つ深い余韻は、小説からしか得られないもの。映画やテレビドラマとはひと味違った感動が、雑誌一冊の中に作品の数だけ詰まっています」と続く。が、これはたいへん弱い。

 こういう弱いコピーには特徴があり、否定詞を連ねて何かを規定しようとする。「小説からしか得られない」「~とはひと味違った」といった語句がそれに当たる。映画やテレビドラマをまず措定して、「それとはちょっとは違う」と言わざるを得ない時点で、すでに負けている。

 人の眉を顰めさせることができるという点で、ポルノ小説は純文学に近似している。ただ、それをどれだけ確信を持ってやるかという違いがあるだけで、しかしそれはまさに決定的な違いでもある。

 成人男性が活字を読まなくなって久しい。そして、こんな時代でも本を読む男性は、表紙が女性の写真だと読まないかもしれない。とすれば書店で手にとってくれるのは女と子供であるが、母親は「問題」ある雑誌を嫌がるだろう…。そんな様々な迷いから生じたリニューアルではないことを願っている。

 「問題」を「イロモノだから、ちょっと問題あり」のニュアンスで捉えられるか、性を含めた人間存在の深みに至る「問題」として捉えられるかは、雑誌の側の覚悟ひとつだ。問題小説という誌名が古びて見えるか、その古めかしさが逆手に取られて斬新に見えるかも、その内容と相まったセンスひとつだったのだが。

 

 

■小説NON(ノン)(祥伝社 月刊)とは■

 NONというのは、ノウハウ本のシリーズとしてのイメージが強いという。しかし小説NONを見るかぎり、典型的な文芸誌である。

 うがった見方をすれば、典型的であることにおいて「文芸誌の出し方」というノウハウを実践しているとも言える。したがって、その見出しコピーはたいへんに典型的、というより古典的にすぎるぐらいである。

 新連載とともに、連載終了となる最終回をきっちり並べて書くなど、きちんと整合性を持たせ、辻褄を重要視するのはノウハウに忠実というべきだろうか。内容的にも、今が旬のベストセラー作家と新人賞作家、社会派が入ったサスペンスと女流文学ふう、現代的人情話と時代物というように、きちんと呼応させながら、なおすべてを網羅しようといった過剰な欲望は見られない。整合性それ自体に価値を見出しているごとくである。

 コンテンツにはひとつずつ言語的なタグが付けられ、そのそれぞれの言い回しは、たいへん陳腐ではある。いわく「世代間 おんなの闘い」、「話題沸騰!大ベストセラー作家の真骨頂」、「暗部を抉る衝撃サスペンス」。新人賞は「新しい才能」で、「好評レギュラー陣」は「梅雨を吹きとばす!」。そして雑誌に付き物のエッセイ類は「教養&随想」と身も蓋もなく、つまりこれらのタグは虚飾というより、真っ正直に手の内、ノウハウをさらしているもののように見える。

 このようにノウハウ的に「文学的」であろうとする姿勢からは、よくも悪くも「文学」の匂いは漂ってこない。意図してか、せずしてか、あまりに陳腐な惹句が、文学的幻想を叩き壊し、文芸誌のパロディとして立ち現われてくる。まさしく否定詞としての「小説=NON」である。

 祥伝社はいわゆる一ツ橋グループに属し、小学館が母体ということになる。小学館といえば、かつての百科事典や「小学一年生」といった学習雑誌で知られた出版社だという。その成功体験から生まれたノウハウとは、人間とその知性のあり方を外形的にカテゴライズし、内面を無視するというものに近い。

 これほど文学とほど遠いノウハウは考えられないが、小説NONは恐るべきことに、それを文学にもきっちり当てはめようとしている。そこには読者の好みも、人生におけるステージも、つまりは内面を形成するいずれの要素も検討されることなく、読者はすべて「文芸誌を買うような人」と十把ひとからげにカテゴライズされている。

 金魚屋プレスにとって意外だったのは、それがわりと快感かも、ということである。私たちはみな「小学一年生」=「文芸誌を買うような人」に過ぎないのだ。わかったような文学臭を振りまき、「内面」を分析されるのは飽き飽きしている。とりわけ無能な編集部の人々にそうされるのは。

 内面を無視するのは、それに対する自らの無能を自覚しているという謙虚さの表れとも言える。もっとも「小説NON」のコンテンツそれぞれでは、執筆者たちによって内面の追求が行われているだろうことを思うと、これはかなり稀代の、そして奇態の、しかし貴重な雑誌ではないだろうか。

 

 

■真夜中(リトルモア 季刊)とは■

 たいへんお洒落な雑誌である。ファッション誌を手掛けたディレクターが編集しているとのことで、版型も大きい。が、最近よくあるような画像重視で「文学的アトモスフィア」漂う誌面作りというより、テキストの読みやすさに重点を置いている。

 数年前に「ニューウェーブ文芸誌」といった触れ込みで、多くの文芸誌が一気に創刊されたようだ。真夜中もその一つではあるが、それは技術革新でカラー印刷がそれまでと比べものにならないほど安くなったことが最大の理由ではなかろうか。

 かといって文芸誌に採算性が見込めるようになったわけではあるまいが、ただ赤字を計算でき、それを飲み込めるぐらいの幅に収まるようになったということだ。文学に深く関わってきた出版社でないとしても、出版社である以上、その構成員はもとをただせば文学青年がほとんどである。会社の知名度やイメージアップのためという大義名分があり、大赤字にさえならないのなら、文芸誌創刊の企画機運はすぐに高まろう。

 このような新文芸誌の多数創刊の背景には、もとより文芸ジャーナリズムの興隆があったわけでなく、これらの創刊によって興隆したということもない。既成の文芸路線の落ち込みをむしろ背景として、カラー印刷の価格破壊から浮上した新文芸誌の企画がヴィジュアル重視に向かってゆくのは必然だろう。

 しかしながら、そのときに創刊された「ニューウェーブ文芸誌」で、今はすでに発行されてないものも、かなりある。印刷費は安いままだし、儲かりはしないことは承知の上だろうから、その休刊・廃刊はコスト的な理由よりも企画内容的な理由と考えられる。

 つまりはネタも情熱も尽きた、ということに他ならない。三号雑誌とはよく言うが、「一度はやってみたかった」というのでは素人に近い。この創刊と消え方を見るかぎり、学生の同人誌発行と変わらない。ただ、営利企業が版元になっているというだけで、その従業員たちの趣味と自己実現と福利厚生のための同人誌である。

 だがそれは、よくも悪くもそうなのであって、では同人誌と商業文芸誌の違いは何なのか、と考える縁にはなる。少なくともセンスのよさで人を唸らせるような雑誌は、商業文芸誌ではなかなか難しいだろう。商業文芸誌が誇るのは、その趣味ではなくて制度性である。制度の権威に誰一人も感心しなくなったとき、本当に別の時代が始まる。

 しかしながら、金魚屋プレスが休刊中の真夜中に期待することは、何としてもこのセンスのよい雑誌を続けてもらいたい、ということである。今は単行本にかかり切りだそうで、少人数であればそういうこともあるだろうが。

 同人誌であれば、一定の役割を果たせば、それで終わりというのがむしろよい。が、商業誌を自負するからには続かなくてはならない。もちろん「文芸六誌」と呼ばれる中にあったような旧来型の文芸誌にも、ちょっとした不景気の波で簡単に廃刊になったものもある。長く続くかどうかは結局のところ、その会社における文芸誌の位置づけと覚悟による。

 

 

■文蔵(月刊 PHP研究所)とは■

 単行本より大きな雑誌は多いが、小さな雑誌はあまり見かけない。それはどうしてか、考えたことはなかった。

 とりわけ最近はカラー印刷の低価格化によって、文芸誌もヴィジュアル化され、大判のものが増えている。書店で平積みにすると場所を取るわけだが、表紙を手前に立て置きしたら、目に付きやすいというメリットがある。

 まず売るということ、そして単行本より間口の広いジャーナリズム感を出してゆくにあたっては、華のある大判雑誌を出したいと思うのは、出す側の都合というものだろう。

 しかし読者としては、手にとるまではともかく、入手してしまったら小さい方が都合がよい場合が多かろう。それ自体がインテリアになるような外国の雑誌や家庭画報などをリビングでぱらぱら眺めるといった絵に描いたような時間は、誰にとっても減っている。

 いまや本はスマホ同様、電車の中や待合室での時間の無駄を避けるための「ツール」と認識されている。大きな単行本はいわば作家のための「記念碑」という側面も持ち、文庫本は100パーセント読者のためのものだ、という言い方もできるだろう。実際、自費出版で文庫本を出すなどといった話は聞かない。としても、それは書物を文字情報コンテンツの集積としてのみ考えた場合のことだ。

 日本は 昔から識字率が高く、書物に対する一般の敬意は深い。そこから世界一美しい本を作るといわれる国となった。美しい単行本は、単にかさばる文字情報コンテンツではなく、「精神」が凝った「もの」である。しかし一方、雑誌には精神が凝ることはない。したがって文庫版であって悪い理由はまるでない。

 文芸誌が文庫版であって、よいことはもう一つある。たとえば電車の中で、文學界とか群像とかを読んでいる人がいたら、どうだろう。まずなにか、やむを得ない事情があるのではないか、もしかして少し頭のおかしい人ではないか、場合によっては自分が席を移動した方がよくはないか、と考える。文芸誌が小さければ、人目を気にせずに済む。

 どんな著者であれ、その「精神」が凝ったものが本であるからには、読んでいることを人に知られて恥ずかしいようなものはない。が、文芸誌には凝るような精神はない代わりに、ある特殊な「カルチャー」が澱んでいる場合がある。そこに浸かっていると見られることは、社会生活を営む上ではあまり好ましくはない場合があるのだ。

 金魚屋プレスが文庫版サイズの文蔵に期待することは、この雑誌のコンパクトさが、文芸誌独特のカルチャーの臭みそのものもまた、極限まで縮小してくれることである。

斎藤都

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■