少し前から月刊俳句界に加えKADOKAWA俳句の時評も始めたのだが、どうも書きにくい。どんなメディアも一長一短があり、理想とするメディア像は作家や読者ごとにまちまちである。ただある作家や作風(いわゆる俳風)が好きなら、結社誌に所属してそればかり読めばいいわけだ。だから商業句誌は結社や同人誌それぞれが主張する俳風の違いを超えてフラットに俳壇を見渡し、理想の俳句像を作家や読者に提示する必要があると思う。

 

 その個々の俳人・結社・読者の意見の相違を超越した、雑誌の考える一段審級の高い理想の俳句像といったものが、KADOKAWA俳句にはあまり感じ取れない。百花繚乱でとりとめがないのだ。これは商業句誌が俳句初心者を読者ターゲットにしていることとは関係がないと思う。そんなことはどの商業句誌もやっている。商業句誌にとって俳句初心者を導くのは大事な役割だが、KADOKAWA俳句は〝どこに向かって導いてゆくのか〟、その方向性が見えない。

 

秋の日といふ大いなるもの懸る

赤き花いよいよ赤し秋の風

菊の日の真只中といふ思ひ

七堂を吹きめぐりたる野分かな

床の間に朝日さすなり冬座敷

大寺に音なすばかり秋の雨

神発ちて岩よぢのぼる潮かな

いつの間に古松の上の後の月

白雲のいくつもありて十三夜

(大峯あきら「僧都」)

 

 巻頭は仏教学者で俳人の大峯あきら氏である。なんの変哲もない句だが、大峯さんの俳句観がよく表現された有季定型写生俳句である。技術的なことを言えばいろいろあるだろうが、こういった作品が最も俳句らしい俳句だとは言える。ただKADOKAWA俳句の巻頭は当然だが毎回変わる。しかし変わっても、そこに雑誌の一貫した主張があるとはちょっと思えない。意図も熱気もないローテーションという感じがする。

 

 KADOKAWA俳句については、なんとなく有季定型の商業誌といったイメージをお持ちの方が多いだろう。しかし有季定型写生を掘り下げようという姿勢がKADOKAWA俳句にあるのかと言えば、ないように思う。過去のKADOKAWA俳句の伝統のようなものを、漠然と引き継いでいるような雰囲気だ。誌面に覇気が感じられないのである。

 

酒ちかく鶴ゐる津軽明りかな     大屋達治

明月や茶碗に入れる酒の銭      一茶

寒き夜や虚子まづ飲めば皆酔へり   星野立子

ひきづられ出てゆくおでん屋台かな  清水はじめ

鰭酒も春待つ月も琥珀色       水原秋櫻子

(小林恭二「酒の句」)

 

闇汁の鍋より曳いてながきもの    小原啄葉

闇汁に持ち来しものの鳴きにけり   大石悦子

狸汁座中の一人ふと消えぬ      佐藤紅緑

鍋尻がチカチカ燃えて狸汁      富安風生

狸汁花札の月空真赤         福田蓼汀

(三村純也「闇汁など」)

 

葱一本横たへて何始まるや      能村四郎

謝つてしまへば葱の甘かりし     細川洋子

鴨鍋のさめて男のつまらなさ     山尾玉藻

牡丹鍋みんなに帰る闇のあり     大木あまり

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり  久保田万太郎

(辻美奈子「今夜はお鍋に」)

 

 今号では「実用特集 冬はあったかおいしい俳句」が組まれていて、小林恭二、三村純也、辻美奈子さんらが、おいしいものの季題を絞って十八句のアンソロジーを作り、短いエッセイを書いておられる。こういったアンソロジーは楽しいのだが、どこか丸投げの雰囲気が漂う。俳句にちょっと詳しい人がこのくらいのアンソロジーを作るのは難しくない。わずか十八句選べばいいのである。編集部でも十分作れるはずだ。

 

 タイトルに「実用特集」とあるように、編集部の意図としては、「酒の句」なら酒の題詠でさまざまな俳句の書き方がありますよ、どうぞみなさん参考にしてくださいということなのだろう。しかしそれを作家に投げて表現しようとするのなら、もう少し著者にページを与えて選句等の基準や考え方を書かせないと目的を果たせないだろう。単純に読み物としての面白さを狙ったのか、俳句実践者向けの講座なのか、特集の意図がはっきりしない。それは大特集「名句は「省略」で生まれる」も同じである。

 

村上 東さんは俳句を作るとき、「俳句だから省略しなくては」という気構えで作っておられますか。

 省略しなくては、とまでは考えないかな。「そうだ、俳句を作ろう」みたいな感じで、俳句を作ろうと思いつつ、私なりに何か味が出たらいいなと思いますが、技術的なことはあまり考えません。(中略)あまり自分を出さずに、「この景色、きれいだな」というくらいの心持ちで表現したいという思いがあるのかもしれない。

 だから短歌も、仮に設定した何らかの世界を詠むようなところがあります。(中略)自分の見聞きしたものだけ、身の回りのものだけだと薄くなる感じはするので、自分の生活だけを詠むというのはそんなには多くないんじゃないかな。病気とか人生でドラマチックなことがあれば、かなりそれで成立していくことはあると思いますが、

村上 回り回って、俳句の方が正直という可能性はありますね。

 確かに、距離が短い分、太くつながっている感じはします。

村上 「私」が前面に出過ぎてはいないけれど、全部「私」のことみたいな

 虚構を入れたりフィクションを入れたりする隙間はないかもしれません。

(対談「「私」を消す俳句とは-言葉を信じて省略する」東直子×村上鞆彦)

 

 特集「名句は「省略」で生まれる」のメインは東直子さんと村上鞆彦さんの対談だが、明らかに噛み合っていない。歌人の東さんの方が、アウェーの句誌に遠慮している雰囲気が漂っている。村上さんの「「私」が前面に出過ぎてはいないけれど、全部「私」のことみたいな」という定義はあくまで俳句を詠む作家の心構えのことだ。村上さんの結社というか俳風ではそういう立場で俳句を詠んでいる。ただ俳句と短歌では客観表現と主観表現という差異が厳然としてある。

 

 お二人の議論が噛み合わないのは、村上さんがあくまで俳人の心構えとしての作句法に基づいて話しておられ、東さんの方は俳句と短歌という異ジャンルの質的違いを前提としながら、村上さんの議論の文脈に引っ張られてしまっているからである。俳句に「虚構を入れたりフィクションを入れたりする隙間はない」(東)とすれば、当然それは客観描写にならざるを得ないわけで、俳句は「全部「私」のこと」という村上さんの主張と対立する。ただ対談はお互いの主張を確認して頷き合うレベル、つまり探り合いの段階で終わっている。

 

 はっきり言えば、ミスキャストというか、根回し不足だと言わざるを得ないのではないだろうか。KADOKAWA短歌では「31文字の扉-詩歌句の未来を語る」が連載されていて歌人と俳人が対談しているが、こちらはうまく噛み合っている。旧知の歌人と俳人を対談させているからだが、こういった雑誌の対談企画は、そもそも話しが噛み合う作家をブッキングすることから始まる。それが編集部の役割なのだ。東さんと村上さんは比較的若い世代の歌人俳人でスター要素はあるが、それだけで対談を組んでも上手くいくとは限らない。

 

 これも言いにくいが、同じKADOKAWAで短歌と俳句という兄弟姉妹ジャンルなのに、短歌誌の方は上手く回っていて、俳句誌の方は迷走しているように見える。KADOKAWA短歌誌は雑誌のあり方として、今のところ非常に上手くいっている。短歌誌は宮中歌会始選者で日本藝術院会員でかつての前衛短歌の騎手であり、大結社未来の主宰である岡井隆さんを大事にしているが、実際には馬場あき子さんを中心としたヒエラルキーを作っているのがわかる。それは正しい選択なのだ。口語歌人らが馬場あき子を仮想敵にして論陣を張るのも正しい。彼女にはそれを批判しながら受け止める度量があるからだ。岡井さんなら「うんわかるよ」で終わってしまう。それでは活性化しない。

 

 雑誌は編集部の意図通りには絶対に回らない。編集部の思い通りに作家は動いてくれないからだ。そのため実績としても知見としても、信頼の置ける作家を選択し、そこはかとないヒエラルキーを作って全体を統御してゆくしかない。短歌・俳句の世界の場合、結社的党派意欲が薄く、歌壇・俳壇に寄与し得る公的な姿勢を持った作家を選ばなければならない。はっきりメインとわかる作家を置くといろいろ問題が起こるだろうが、それでも歌壇・俳壇作家の多くが「この人なら」と目する作家を重用しなければ、中心がなくなってしまう。

 

 傍から見ていても今の歌壇は活気があり、ベテランと中堅、若手がうまく組み合わさっている。KADOKAWA短歌を編集するのは楽しいだろうと思う。それに対してKADOKAWA俳句の方は、編集部の楽しさや熱気が伝わってこない。角川書店時代から角川の文学的プレステージを保証する代名詞は角川俳句のはずだが今の勢いは逆転している。源義氏の代からの角川肝いり雑誌であるがゆえに、お家騒動の余波で骨抜きにされたかな。編集部がまず俳句に対する高い見識を持てば、雑誌の雰囲気も自ずから変わるだろうと思う。

岡野隆

 

 

 

 

■ 東直子さんの本 ■

 

■ 村上鞆彦さんの本 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■