九月号では「さらば「萬緑」!~中村草田男と「萬緑」の軌跡」が組まれている。中村草田男が昭和二十一年(一九四六年)に創刊した結社誌「萬緑」が、平成二十九年(二〇一七年)三月をもって七十二年の長い歴史に終止符を打つのである。中村草田男といっても俳壇外の人はピンと来ないだろう。しかし「降る雪や明治は遠くなりにけり」を詠んだ俳人だと言えば、「ああ知ってる!」になると思う。
俳句は残酷な芸術である。人口に膾炙した代表句があるかないかで俳人の評価はまったく変わってくる。優れた俳句を詠んでも俳人の懐が潤うわけではない。しかし名句は一瞬で日本語の一部となる。草田男の「降る雪や」もある時代を画する名句だ。
草田男は明治三十四年(一九〇一年)に愛媛県で生まれ、昭和五十八年(一九八三年)に八十四歳で没した。同郷の高濱虚子に師事したが、戦後に主宰誌「萬緑」を創刊した。俳壇では石田波郷、加藤楸邨と並ぶ人間探求派の俳人として知られる。師の虚子「ホトトギス」は有季定型写生の花鳥風月俳句を基軸としたが、人間探求派はそこに作家の内面表現を付加した。現代俳句の基盤となった、戦前の新興俳句運動の中心俳人の一人でもあった。敬虔なクリスチャンだったということも草田男を考える上では重要な要素だろう。
貝寄風に乗りて帰郷の船迅し
蟾蜍長子家去る由もなし
玫瑰や今も沖には未来あり
思ひ出も金魚も水も蒼を帯びぬ
軍隊の近づく音や秋風裡
木葉髪文芸永く欺きぬ
降る雪や明治は遠くなりにけり
萬緑の中や吾子の歯生え初むる
冬浜を一川の紺裁ち裂ける
夜の蟻迷へるものは弧を描く
富士秋天墓は小さく死は易し
勇気こそ地の塩なれや梅真白
焼跡に遺る三和土や手鞠つく
深雪道来し方行方相似たり
葡萄食ふ一語一語の如くにて
文字の上の意味の上をば冬の蠅
真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道
光ある中妻子と歩め薄氷期
咲き切つて薔薇の容を超えけるも
曼珠沙華飯粒こぼし銭落し
中村草田男
草田男高弟の横澤放川氏による「草田男100句」から二十句を抜粋した。杓子定規に言えば、草田男は虚子「ホトトギス」系の有季定型俳人である。しかし引用の二十句を読んだだけでも草田男俳句がバリエーションに富んでいることがわかるだろう。「夜の蟻迷へるものは弧を描く」や「深雪道来し方行方相似たり」といった句は、富澤赤黄男・高柳重信らの現代俳人が詠んでいてもおかしくない。新興俳句に代表される大正俳壇が、近・現代俳句の全盛期だったと言われる由縁である。昭和三十年代以降のいわゆる前衛俳句の基盤は、ほぼ大正俳壇の俳人たちによって作り上げられたと言っていい。
正岡子規が定義し、高濱虚子が盤石なものとした有季定型写生俳句が、俳句文学の原理と言っていいヴィジョンであるのは間違いない。喩的な言い方になってしまうが、俳句文学は〝俳句総体〟とでも呼ぶしかない完結した日本文学の言語像を〝写す〟芸術である。ただ俳句総体は先験的に存在し、かつその姿形は不定である。またそれは人間の強い個の意志で表現できるヴィジョンではない。むしろ可能な限り自我意識を希薄化させて、俳句総体にあるかなきかの作家の自我意識を沿わせるほかない。子規の写生による多作や、虚子の人間の自我意識を排した花鳥風月世界は、そこに到達するための最も有効な方法論である。
ただ一方で明治維新以降の日本文学は、欧米文学を真正面から受け入れた自我意識文学である。俳句の非自我意識文学という特徴は維新以降の日本文学と激しく対立する。簡単に言うと、子規は俳句文学に欧米的自我意識を取り入れようとはしなかった。それは俳句文学にとっての異和であると見切り、自我意識表現は短歌や自由詩、小説などで表現しようと企図したのである。
虚子もまた原理的には子規と同様の認識を持っていた。しかし虚子の現代人としての自我意識は、いわゆる党派的な俳壇政治で発揮されたと言わざるを得ない面がある。この俳壇政治(結社によるセクショナリズム争い)が、現代に至るまで俳句界の大きな弊害になっているのは言うまでもない。ただ大正俳壇くらいまでは、俳壇政治に見えてもその内実は、ある程度は文学的必然として生起していた。
草田男は第五句集『銀河依然』(昭和二十八年[一九五三年])の跋文で、「第三存在の誕生」ということを言っている。「第三存在」とは「『思想性』と『社会性』とでも命名すべき、本来散文的な性質の要素と純粋な詩的要素」をマージさせ、それを弁証法的に統合した俳句ヴィジョンのことである。社会性俳句というと現代ではすぐに金子兜太の名前が思い浮かぶが、草田男はその嚆矢である。
草田男の『思想性』、『社会性』は、うんと単純化すれば人間の自我意識のことだ。幕末月並俳句で遊戯と化していた俳句は、子規・虚子によってその表現基盤を付与された。虚子は生涯有季定型花鳥風月俳句墨守の姿勢を貫いたが、草田男を始めとする大正新興俳句俳人たちは、そこに近・現代的自我意識を付与しようとした。それは現代俳句が辿らなければならない一つの必然だった。それはやがて高柳重信の、唯一無二の作家の個性に基づく現代俳句となってピークを迎えることになる。
ただ草田男が唱えた「第三存在」が成立し得たか否かについては、客観的に考える必要がある。草田男は論客でもあり、日野草城のミヤコ・ホテル論争や、桑原武夫第三芸術論など様々な論争を行った。ただ近代文学と俳句文学の間に矛盾として存在する最大のアポリア――〝作家の自我意識問題〟を草田男が解消し得たわけではない。ミヤコ・ホテル論争では草田男の倫理的美意識が性的自我意識表現を批判させた。俳句文学内では自我意識表現を許容した草田男だったが、第三芸術論論争では俳句の基盤である非自我意識文学という特徴が、結局は彼の論調を歯切れの悪いものにしてしまった。草田男が直面した矛盾(アポリア)を解消し得た作家は、現在に至るまで存在しないのである。
霜遍満同志以外弟子在るべからず 草田男
結社とはいったいなんなのだろうか。草田男の定義では「同志」、つまり同じ志を持つ者が彼の弟子であり、同志や弟子は草田男の俳句ヴィジョン=理想の俳句を追い求める者ということになる。逆に言えば「第三存在」に代表される草田男の俳句ヴィジョンは、彼一代では到達把握できないものだったということだ。俳壇政治的な一種の利権集団という側面を無視すれば、結社は師が提示したヴィジョンを、その死後も探求し続ける作家集団だと言っていいだろう。
ただ「萬緑」に限らないが、結社誌は次第に師の教えの墨守に傾いてゆく傾向が強い。伝統俳句の作家たちばかりではない。無季無韻俳句でも前衛俳句でも、結局は師と仰ぐ作家の作品や評論を絶対とし、その微細な解釈に明け暮れるのが常である。草田男は原理的に言えば虚子「ホトトギス」に反旗を翻した作家であり、「萬緑」には師の教えの乗り越えという意図があった。そういった超克の意識は現代の結社誌のどこにも見当たらない。
大人数の結社を維持すれば、結社はそれなりの現世的力を持つことができる。政界の多数派工作のようなものだ。結社所属員の中で先師の作品が語り受け継がれるのはもちろん、俳壇の賞や、俳句界ではほとんど唯一の多少の報酬をもたらしてくれるメディアの選者になる際も有利である。いわゆる大臣ポストということになるだろうか。
ただどの俳人も口を開ければ俳句への熱い思いを語り、俳句は文学であり、それ以外の現世的しがらみは存在しないと言いたがる。しかしそれは見え透いた嘘だ。俳句を文学と定義するなら結社は理念が失われれば廃刊になってよい。むしろ理念が見失われた時点で結社を廃止するのが文学者の正しい姿勢だろう。継承すべきなのは俳句の本質探求であって結社ではない。
岡野隆
■ 中村草田男の本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■