小説を読んでいて惜しいな、と思うことがしばしばある。もちろん大衆文学と純文学ではその質が違っている。大衆文学では読者を楽しませることが暗黙の了解だ。謎解きであれハピーエンドであれ、ある種のカタルシスが求められる。ただ型にはまったカタルシスでは能がない、と言っては失礼だけど、凡庸だなぁと感じてしまう。物語の落とし所はそうそうないが、それを少しでも逸脱したり超越した作品を書く作家が、やはりいい作家だと認知されてゆく。

 

 純文学の場合は、過去を遡っても読んでいて苦痛を感じるような作品に秀作はないと思うのだが、建前としては面白い作品を書かなければならないという要請はない。ただ〝面白くなくてもいい〟という否定形では誰も納得してくれないわけで、それ以上の要素が求められる。それが純文学の〝文学的意義〟になるわけだが、その内実は曖昧だ。

 

 詩は本質的に自由詩で、形式的にも内容的にもまったく制約のない自由な表現だと言われる。しかし優れた作品には型がある。作家の思想と型が密接に結びついている詩作品が秀作だと言ってもいい。それに近い関係が小説の純文学にはあると思う。テレビや映画、あるいは新劇的な物語をどこかで逸脱しながら、それ以外(あるいは以上)の面白さを確実に読者に体験させなければならない。それが純文学の文学的意義だがこのハードルは高い。いきなり高いハードルをクリアしようとするのではなく、大衆文学的クリシェを十分学習してからそれに挑んだ方が、まだ可能性があるんじゃないかと思うこともある。

 

 短歌俳句を含む詩が死屍累々の世界であるのは周知の通りである。本当に優れた詩人など一世紀に数人も出ない。しかも経済的恩恵はほとんどない。少し前までは、小説家は詩人を尊敬しながらどこかバカにしていたようなところがある。金にもならんことに血道をあげているのは立派だが、ちょっとした作家ほどにも世間様にその名も作品も知られていないからだ。ただどんどん詩人さんと純文学小説作家さんの距離が縮まっている。食えない、儲からないということばかりを言っているわけではない。作家それぞれが固有の〝文学的意義〟をはっきり掴まなければ、読者を獲得できない時代になっている。

 

 あなた鬼おろしを隠したでしょう?

 鼻から息を吸って胸をふくらませ、口から細く吐きだす。

 してないよ。台所の引き出しにない?

 さよちゃん、おかあさんの鬼おろし、どこへやったの?

 知らないよ。

 盗んだでしょう?

 窓の外を乗客たちが列をなして歩いていく。窓の曇りのせいでみな顔はのっぺらぼうに見える。

 母の言葉はとまらない。いつものことだとおもいながらも胸の奥はぐつぐつと煮え立ち、わたしはごめんねとそうだねしか言わない機械になる。目に映るものはみな乳白色の膜をまとい、うなずきをくりかえしながらこみ上げてくる吐き気にからだを折ると、携帯電話が耳元で熱を持っている。

 船室に残っている人はおらず、ようやく立ちあがってシフォンケーキの上を行くようによろめきながら桟橋に降りたつと、客の名前を記したボードをかかげた男性の顔がぼんやりにじんでいる。ボードに添えられた文字がなんとか読みとれる。

(小山内恵美子「御堂の島」)

 

 小山内恵美子氏の「御堂の島」の主人公はフリーライターの小夜である。地元出版社の編集長から「独自の信仰が息づく島の取材をしてほしい」と依頼され、フェリーで一人島に向かう。沖ノ島あたりがモデルになっているようだ。編集長の依頼は取材だけではない。カメラマンの高山が先乗りしていて、彼の行動を見張って欲しいと言うのだ。高山は巨漢のカメラマンで、優秀だがデジタルの世の中になってもフィルム式カメラにこだわっていた。ただ半年くらい前に妻を亡くしてから一台を残してカメラを売り払い、代わりになぜかドローンを購入してその撮影に熱中していた。小夜の行く島ではドローンでの撮影は禁止されている。島の人たちは「山も海も空も神聖だ」と考えていて、島全体の撮影は禁忌なのだった。「もしドローンを飛ばそうとしたらやめるよう説得してほしい」と編集長は言った。

 

 引用は小説の冒頭の方だが、この箇所に「御堂の島」という作品のストラクチャーは明確に示されている。小夜が行くのは本土から海で遠く隔てられた孤島だ。彼女には痴呆症の母親がいて、ひっきりなしに娘に電話をかけてくる。フェリーで島に上陸しようとしている瞬間もそうだ。目では海と島を見ながら、小夜の心は母親との苦しい世界に閉じ込められている。神聖だが禁忌に満ちた絶海の孤島と、小夜と母親の閉じた関係は相似である。物語は閉じた関係を深めるか、それをなんらかの形で破壊するしか進みようがない。もちろんどちらに進んでも良い。

 

 わたしの胸の内側には(かめ)がある。味噌や酢を寝かせるような、分厚くて、素朴で、雨風にさらされてたくさんひびや欠けの入った甕。かすかに呼吸して、中は光の届かないぽっかりとした闇であり、そこへまるで覚えたての幼児が発するような舌足らずの母の言葉がぽとりぽとりと落ちてゆく。毎日の生活の中で湧きでた感情もそこへ落ち熟成され、蓋をあければ鼻をつく発酵臭がするだろう。

   *

 早く返しなさいよ! ぜったいに許さないわ!

 甕の内側の暗がりへ言葉が落ちていく。あとすこしであふれる。

 だまってちょうだい。

 言い放つと電話を枕に投げつけた。

(同)

 

 老いた母親と介護する娘との関係は、若い母親と子供の関係の裏返しだ。しかし子供が成長してゆくという未来の希望はない。待っているのは死だけだ。だがそれはいつ訪れるかわからないほど遠く感じられる。ただ母親が子供を手放せないように、娘は年老いた母親を見放せない。その厳しい現実に直面して、多くの人が「分厚くて、素朴で、雨風にさらされてたくさんひびや欠けの入った甕」を心の中に抱えている。それを割るには残酷な勇気がいる。またその甕の中に埋没すれば現実の手触りはどんどん失われてゆく。しかしそこにはまだ誰も明らかにしたことのない救い、あるいは絶望が横たわっているはずである。

 

 なにをする!

 高山さんの怒鳴り声と同時に銃声がひびいた。映像がぷっつりと切れた。浜蔵さんのからだは弾かれたようにうしろにのけぞり、銃についた革製の肩ひもがゆらゆらとゆれている。

 空に純白の花が咲いて散り、胸の中で暗く湿った甕が割れる高い音がした。ドローンは粉々にくだけ、破片はゆっくりと舞いながら落ち、海や集落の森へと消えてゆく。すべて消えた空はかすかに煙り、わたしは腕をまわして自らのからだを抱き目を閉じた。

(同)

 

 雑誌編集長が心配していたように、カメラマンの高山は禁じられているドローンでの撮影を始めてしまう。しかし高山と小夜を案内してくれた地元民の浜蔵が現れ、猟銃でドローンを破壊してしまったのだった。この箇所が「御堂の島」という作品の大団円でカタルシスということになる。しかし多くの読者が感じるように小夜子の〝甕は割れていない〟。閉じた島での閉じた出来事と、それとパラレルに起こる娘と母親の閉じた関係には距離がある。

 

 この中途半端な主題の追い詰め方が、文學界の枚数制限によるものなのか、言いにくいが作家の力量不足なのはかわからない。ただ神秘の鎖された島と、醜くおどろおどろしく、それでいてある原初にまで届くような母娘関係を設定した以上、その根に届かなければこの小説の主題は完結しない。

 

 「おかあさん、だいじょうぶ?」

 そう言ったとき、民子の胸があたたかくなった。とうとう顎の皮膚がやぶれて中身があふれだしたのだ、と民子は即座に理解した。(中略)

 なにそれ、なんなの。あかんぼう、あかんぼうじゃないの。どういうこと? あかちゃんが、生まれたの。あかちゃんよ、あかちゃん。うそでしょう?

 幾人かがささやいた。ささやいたような気がする。と思うほど、民子はそれらの声を遠くに感じたが、ささやきの内容の通り、それはたしかに、一人の小さな、人間の赤ん坊だった。

(東直子「民子の願い」)

 

 東直子氏の「民子の願い」は、顎から赤ん坊を生んだ母親を持つ小学生の民子の話である。母親は赤ん坊を産んだ後に亡くなってしまう。後に残された父親と民子、それに父親が自分の子ではないと疑っているので、赤ん坊を預かって育てる祖父母との関係が描かれる。しかしファンタジーにも、ファンタジー的虚構を活用したリアリズム小説にもなっていない。

 

 東氏だけでなく文學界新人賞を受賞した高柳克弘氏など、歌人・俳人で小説を書く作家が増えている。閉塞した文学界に風穴を開ける力になり得る動きであり、いいことだと思う。しかしそれと作品の評価はまた別である。

 

 ものすごく言いにくいが東氏も高柳氏も、小説文学とは何かをそのスコープのど真ん中に捉え切れていないと思う。申し訳ないが、見よう見まねで小説のような小説を書いている段階だ。文學界という権威ある小説文芸誌に作品が掲載されてもその評価は変わらない。詩的な小説と言えば言えるのだが、詩にも小説にもなっていないというのが正直な感想だ。

 

 チャンスは数限りなくあるようで実際には少ない。もうべたべたな小説を書く覚悟をどこかで決めなければ、いずれ本業の短歌や俳句の世界に戻ってゆかざるを得ない道筋が見え始めているように思う。それは作家自身もどこかで感じているのではないだろうか。安易な気持ちで短歌や俳句の世界に入ってきてもムダだよという気持ちがプロの歌人俳人にはあるだろう。同じことが小説文学の世界にも言える。

 

 今の文学の世界ではこういったことを書くと、すべて悪口と捉えられるがそういうつもりはまったくない。批評を書いている方だって、何を書いてもムダだろうなという徒労感が強い。ただ一縷の望みを信じて書いているのである。

大篠夏彦

 

 

 

 

■ 東直子さんの本 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■