柄谷行人以降だと思うが、批評の〝創作化〟が進んでいる。夏目漱石を論じていてマルクスやデリダの名前や思想が頻出したりするのだ。関連があればいいのだが、たいていない。批評家が小説をダシにしながら自己の考えを語っている場合がほとんどだ。小説批評など書かないで哲学書を書いた方がスッキリする。で、柄谷さんのように哲学書を書き始めると悲惨なことになる。やっぱり文学作品をダシにする方が都合がいい。ジャンルの性質上、たいていの小説よりも創作批評の方が〝お利口〟に見える。ただそれは幻想だ。
実際、どんな小説でも創作批評が書けるのかというとそうでもない。現代詩並みにどうとでも解釈できる前衛小説は創作者批評家にとって便利な素材のようで、しょーもない前衛文学がやたらと高く評価されたりする。しかし一般読者はもちろん、作家たちもそういった批評をまったくといっていいほど読んでいない。仲間内のジャーゴンだらけの文章は頭の上を素通りするだけで、創作のヒントとしても全然役に立たない。批評が読まれなくなったのは批評家の責任だ。創作批評は一部の文芸誌の中だけのブームである。
誰かはっきり言った方がいいと思うが、創作批評は本当にレベルが低い。最初のうちは面白かったが、もう手の内が透けて見える。小学生の借り物競走じゃあるまいし、オリジナル・コンテキストを無視して思い付きで海外思想をランダムに繋ぎ合わせ、何か言ったつもりになってもムダだ。ポスト・モダニズム時代の初期には何か新鮮な思想を生み出すのではないかと期待されたが、そんな期待はとうの昔に吹き飛んでいる。日本文学には固有の文脈がある。自分で考え抜いた主軸思想を持った上でサブ的に海外思想を援用しなければ、うまく機能しないのは当たり前である。
ただこのジャーゴン的創作批評家サークルの心の支えになっているのも、純文学系文芸誌のようだ。どうしようもない創作批評がけっこう載っている。編集部は一度、「雑誌掲載した文芸批評を読みますか? なにかの役に立ちますか?」というアンケートをとってみたらどうだろう。作家や読者が「読まない、役に立たない」と言えばその時点でアウトである。読まれなければ何も始まらない。
「マウは賢かな。ちっとも驚かん」
「馬やけんで、天然自然の現象は当たり前と思うとやろ」
圭介のぶっきらぼうな答えに透は軽く驚く。思い返せば、働き者だとか素直だとか美人だとか自分がマウを褒めるたびに「馬は馬やけんで」と圭介は気怠く言葉を挟んでいた。(中略)
自分は小学生時代から今の職に就くまで、関わる動物たちに名前を与えていた。最初の飼い犬が「ボッチ」、次の鮒は「クサオ」で解体していた二枚貝にも「アリアケ1号」と。(中略)俺は圭介のように馬は馬、人は人と割り切れないのだ。そういや、自家栽培しているレタスやキャベツにも名前じゃないが「キャベツちゃん」などと呼びかけてるな。
(岸川真「坂に馬」)
岸川真氏の「坂に馬」を読んで、物語の力はあるものだなと思った。中上健次を彷彿とさせるような小説である。物語の力とは、まずは小説を読ませる力、次のページをめくらせる力くらいの意味である。小説であれ詩、批評、エッセイであれ、読ませる力があることが作品の最低要件だ。中上健次を思い出したというのも別に嫌味ではない。中上は物語の力を信じた作家である。無意識的にであれ意識的にであれ、その作風を想起させる作品は物語の落とし所のハードルが高いはずである。成功作でもそうではなくても、小説という、結局は物語の力が根幹になる言語芸術の問題は、こういった作品から探ることができる。
「坂に馬」の主人公は建材を運ぶ仕事をする圭介と、魚類学者で地元水族館の副館長に転職したばかりの透である。二人は幼馴染みだが、圭介の方は「お前を知ってはいるが友達やったことは一度もない」と思っている。物語は台風が近づく中、圭介が馬のマウに建材を曳かせて急な坂の上にある透の家に向かうところから始まる。九州の坂ばかりの土地で、道も狭いので馬を使って建材を運ぶしかないのだ。透は妻子を残して自分だけ実家に戻り、家を建て増ししようとしていた。ただ家の中には東京から透を追ってきた若い愛人がいる。朝ケンカして、むくれて家のどこかに隠れてしまった。圭介が建材を運び上げるのとほぼ同時に天候が急変し、猛烈な嵐になる。圭介と透、それに女が崖上の家に閉じ込められた。
「馬は馬やけんで」とあるように、圭介は生き物に対して醒めた、しかし現実に根ざした認識を抱く青年である。それに対して魚類学者の透は「圭介のように馬は馬、人は人と割り切れない」青年だ。どちらかが正しいとは言えない。議論すれば引き分けになるだろう。真と偽とも言い得る認識を持つ青年二人を、どうやって論理を超えた認識あるいは調和の審級にまで持ってゆくのかが、この作品のアポリアである。
「すまんかったな、もう手遅ればい」
肩越しに振り返り、頭の一部が窪んだ魚類学者に言う。勝手に旧友だと思い込んでいる男は弛緩しきった笑顔を浮かべる。
「あんたの女もたぶん駄目やろう。まあ、俺には良かったかも知れん」
稲妻が走った。圭介は他に言うことがなかった。水で組成された巨人の手が彼らを捕まえる。
圭介とマウは押し寄せた流れの上に浮き上がった。透の姿が見えなかった。木っ端のように渦に引き寄せられながら、圭介は灰色の世界が激しく回転するのを眼を見開いて眺めた。渦巻く爛れた膿色の雲と流れに突き出しては消える墓石、卒塔婆、折れた樹木。そして至近距離で浮かぶ馬体。
(同)
突風で建築中の家が崩れ、圭介は足に大けがを負ってしまう。透は母屋に圭介を入れると、応急処置をしてから麓まで助けを呼びに行くことにする。電話はもう不通だった。透は馬のマウも助けてやろうと思い、手綱を引いて急坂を下りる。だがそれが裏目に出る。台風の嵐は予想を超えていて、透は倒れたマウの下敷きになってしまう。どうやっても抜け出せない。怪我を押して透とマウの後を追った圭介はもがき苦しむ透を発見するが、どうすることもできない。そして土石流が起こり、透と圭介、それにマウを飲み込んでしまったのだった。
極端を言えば、透は生きとし生けるものに愛情を抱く博愛主義者である。圭介は人間を含む生き物の生き死にが、どうしようもない形で起こってしまうと認識している一種の虚無主義者だ。ただ彼の虚無主義には現実的倫理がある。愛情はあっても家畜は家畜と思わなければ酷使できず、老いれば一番楽で愛情ある殺し方をしてやらなければならない。もちろん家畜より人間の命の方が貴いと考えている。圭介が透を友達と思っていないのは、生き物に対する甘い認識に反発しているからでもある。学者は生と死の過酷さに直面したことがない、と見切っているのだと言ってもいい。
透は馬のマウに裏切られるようにして命の危機にさらされ、圭介は透を助けようとするわけだが、その二人を土石流が飲み込んでしまう。それはこの小説のありうべきクライマックスである。ただ唯一のクライマックスだとは言えないと思う。人智を超えた自然の猛威が人間的営為をすべて押し流してしまったからである。物語の力、読ませる力として設定されていた透と圭介の対立は振り出しに戻ったのだ。現実に即した大団円ではあるが、この作品が目指していたのは、何らかの形での対立の超出ではなかったのだろうか。
「東京者ね?」
「そうよ」
「颱風はここらの土地じゃ居座ることも戻ってくることもある。東京の人間は知らんやろうが」
「そうなんだ。ゲリラ豪雨ってすっごい雨降るんだよ、東京は。大工さん知ってる?」
「大工じゃなか。俺はここに建材運ぶ馬、あれを飼っとる」(中略)
「早口の他に、九州の人って、と、とか、ばってん、とか言うよね。ウケる」
女は一人勝手に九州出身のタレントがバラエティ番組で話す内容をひとしきり語ると頭を下げてクスクス笑う、細っこい肩が微妙に揺れていた。
(同)
透の愛人が猛烈な台風で不安になり、隠れていた場所から出て来て圭介と言葉を交わすシーンである。この女のリアリティはあるが薄っぺらい存在が、「坂に馬」という作品を、さらに現実の厳しい枠組みから一歩も抜けない枷として作用してしまっているように思う。絶望小説はもっと徹底して絶望を深めなければならないのではなかろうか。そうしなければ現実にはあり得ない、だが小説という芸術で微かに許された観念的飛躍は起こらないと思う。
大篠夏彦
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