十月号では「短歌のヒューモア」が特集されていてそういえば短歌にはあまり笑いがないなと思いました。もちろん幕末には短歌と同じ五七五七七の狂歌が大流行したわけですが今では短歌とは別ジャンルとして扱うようになっています。またそれは理由のあることで狂歌師と歌人を兼ねた人はいません。世の中を斜に見て権威をチクリと風刺するのが狂歌の醍醐味だったわけで狂歌は目的ではなく手段だったとも言えます。では狂歌に文学的価値がないかと言えばそうも言えない。今も昔も歌人の精神が〝お歌業界〟に閉じがちなのに対して狂歌師たちの精神は広く世の中に開かれていました。

 

 江戸後期狂歌は緩い集団ですが大田南畝ら武士を中心とする四谷連と写楽を世に送り出したことで有名になった出版人・蔦屋重三郎らの吉原連などがありました。ただこの両派は身分の差を超えて吉原でしょっちゅう顔を合わせています。蔦屋は歌麿などの人気絵師を起用した限定豪華版の狂歌集も数多く出版しておりその一部が今に伝わっています。南畝や蔦屋の時代はまだ幕藩体制が堅牢でしたがその精神が最幕末の様々な批判的精神を生んでいったのです。また南畝の『一話一言』などを読むと彼がいかに優れた知識人だったかがよくわかります。日本文学で知性に裏付けられた良質のヒューモアを意識的に生み出した最初の人たちは狂歌師たちだったと言えるでしょうね。

 

こんなところに釘が一本打たれていじればほとりと落ちてしもうた

こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり

山崎方代

 

 現代短歌のヒューモアでまず頭に浮かぶのは山﨑方代で特集トップバッターの大松達知さんはやはり方代の歌を取り上げておられます。短歌のヒューモアについて大松さんは「短歌という形式には人間や人生が色濃く貼り付いてしまうものだ。軽妙に詠んだだけの歌は作者の人間としての底が割れてしまう。じつは怖い詠み方なのかもしれない。ただ笑わせるだけでない。〈おもしろくてやがて悲しい〉詠み方がヒューモア短歌の一つの意義なのだろう」と批評しておられます。古典的定義ですがヒューモアではどうしたってこういった古典的基盤を抑えておかなければなりません。

 

 山﨑方代の評価が上がっていったのは彼の死後しばらくしてからではなかったでしょうか。方代には歌人には珍しい山頭火や放哉に通じるような〝世捨て〟の雰囲気があります。しかし山頭火や放哉にあるような孤独とは無縁です。方代の伝記や研究書は何冊も刊行されていますが彼が人との交流を断つ世捨て人ではなかったのは言うまでもありません。では方代にとっての世捨てとはどういうことか。

 

 ちょっと乱暴な言い方ですが方代の世捨ては〝現代人のロクデナシ精神〟だと思います。山頭火や放哉にはちらりと見受けられる既存俳句への反抗心といったものは方代にはありません。歌壇のことは知っていたはずですが恐らくどーでもいいと思っていた。ただ無理なく社会のロクデナシでいられる人などおらず方代はいつだって「しどろもどろ」なのです。しかしそれが読者である現代人の心の中にも確実に存在する〝ロクデナシ性〟に響く。きちんとした格好をして社会で生きていても極端を言えば文学に取り憑かれた者たちはどこかロクデナシですよね。

 

 「ロクデナシでえうなきものだなぁ」という意識は自我意識の省察に向かうほかありません。でもその認識が深ければ深いほど作家の精神は単純な絶望に留まったりはしない。絶望など通り越して人ごとのように自己のロクデナシ性を見つめて客観描写してしまう。方代の短歌にはヒューモアがありますがそれは絶望を通り越した人の清潔な精神の表れです。啄木は社会批評家でもありましたがロクデナシであった彼の生活者としての苦悩の山を越えたら方代のような歌を詠んだかもしれません。

 

人間は予感なしに病むことあり(なほ)れば楽しなほらねばこまる

不可思議の(おも)もちをしてわが孫はわが小便をするをつくづくと見る

斎藤茂吉

 

 小池光さんは「禁制された笑い」で斎藤茂吉を取り上げておられます。孫の歌は世に溢れていますが茂吉はさすがですね。だけど小池さんは「斎藤茂吉は笑わない。なにがおきても笑わない。笑うのはあくまでまわりにいるものである。あるいは読者である。しかし、そういう者が笑うと茂吉は喜ばない。喜ばないどころか、起こる。癇癪を爆発させる。「なにが、おかしいんだ!」と怒鳴りつけられる。それが恐ろしいから笑うに笑えない」と書いておられます。茂吉文学の正しい理解に基づいた〝禁制された笑い〟を論じておられます。茂吉の元からヒューモア作家でもあった北杜夫が生まれた理由はあるのです。

 

 笑いは日常の文脈を外すことから生まれます。それにはまず高い社会性が必要でありかつ社会規範の間接を外すような柔軟な精神が必要です。もちろんドタバタのスラップスティックは楽しいですが文学者の本領とするところではないですね。なんらかのトゲが必要になる。そして文学が個人的営為である限り作品が喚起するおかしみは作家の人間性と深く結びついています。茂吉のような理不尽なまでの雷オヤジであればあるほどその背負っている家長としての重みがほんのりとした悲しみを漂わせる笑いを生むのです。

 

牛のぬりえを私が調査した結果もっとも青いのは肩ロース

斉藤斎藤『渡辺のわたし』

横断歩道(ゼブラゾーン)にチョークで人型を書きもう一人を追加したり

髙瀬一誌『火ダルマ』

 

 斎藤のヒューモア・センスが最も爆発している手法。「牛のぬりえ」という意味不明なモチーフなのに、「もっとも青いのはどこか」とさらに意味不明な調査をするのが笑える。現代短歌に欠けていたタイプの笑いである。ギャグ漫画からの影響が最も大きいと思われるが、短歌的には髙瀬一誌からの影響だろう。不条理なヒューモアはまだまだ短歌に持ち込まれたばかりの感覚であり、伸びしろのある分野だ。

 

 現代短歌がヒューモアの地平を新しく開くうえで、今もっとも重要な切り札は斎藤斎藤だといえるだろう。そして短歌がヒューモアを表現する可能性を追求する以上、それは完全口語短歌への希求と軌を一にしていることを、はっきりと認識しなくてはいけないと思う。

(山田航「現代短歌のヒューモアの手法」)

 

 口語短歌世代になるとヒューモアの捉え方は年長世代とだいぶ違ってきますね。口語短歌の多くはおかし味を有していると言えます。ただそれは感覚的なものであり意味的文脈は薄い。ある集団にはバカ受けしても多くの人がなるほどと納得するようなヒューモアではありません。また山田さんの批評で気になるのは結論の性急さです。

 

 「現代短歌がヒューモアの地平を新しく開くうえで、今もっとも重要な切り札は斎藤斎藤だといえるだろう」と書いておられますがこれはプロバカンダです。山田さんがそう書いておられるから一瞬であろうと斉藤斎藤さんがそのような位置に押し上げられるようになる。「短歌がヒューモアを表現する可能性を追求する以上、それは完全口語短歌への希求と軌を一にしていることを、はっきりと認識しなくてはいけない」も同様です。短歌界あるいは歌人たちが「完全口語短歌への希求」を持っているわけではありません。

 

 現代は世の中の先行きが非常に不透明です。その不透明さと反比例するように性急な言説が溢れています。特にネットの世界がそうですね。「韓国終わった」「中国追い詰められた」といった無責任な言説に溢れかえっている。だけどそんなに簡単に何かが変わり終わってしまうことはまずないというよりあり得ないのです。

 

 批評家の一番の弊害は書き手個人が自己の小さな能力で何かを完全に総括して終わらせてしまいたいという欲望を抱くことです。しかし世の中は絶対に個人の思い通りには動かない。また自分の思い通りになるような世の中などちっとも面白くないのです。何かを変えようとする意気込みはけっこうですが性急さは危うい。批評家は大胆であると同時に小心でなければなりません。

 

 大胆に打って出る批評家にくらべれば穂村弘や東直子や黒瀬珂瀾らは二股かけたズルイ奴らということになるかもしれませんが作家は必ず自分が書いた作品や批評に復讐される。うかつな言説が身動き取れない場所に作家を追い込むことがあります。また安全保障的に〝仲間〟を信じるのも危険です。なぜか。文学者の仲間などあてにならないからです。必ず誰かが抜け駆けするのでありそういう自分もまた常に抜け駆けを狙っている。

 

 手放しで他者をほめるのは基本的にやめた方がいい。手をつないでみんなで一所に前に進んでゆけると思うのは若い一時期だけの幻想です。作家が個である限り個はワガママで必ず他者を蹴落として自分だけ生き残ろうとする。批評意識が脱け落ちてしまう箇所が最も批評家の恣意が透けて見えてしまう箇所でもあります。山田さんはいい人なのでしょうが他人は自分が思っているようないい人ではいてくれないでしょうね。

高嶋秋穂

 

 

 

 

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