十一月号は第62回角川短歌賞の発表号で佐佐木定綱さんが受賞なさいました。定綱さんは前回の第61回角川短歌賞で次席受賞でしたね。次席受賞といっても数多くの若手歌人の中で実力を認められたのは確かなことであり少なくとも角川短歌誌に作品や文章を発表する道は開けます。たいていの歌人は次席であろうと認知されれば角川短歌賞はもう卒業ということになりますが二回続けて応募して正賞を受賞された定綱さんは面白いです。正賞を受賞しなければ納得できなかったのか作品の発表ペースとして角川短歌賞に応募されたのかはわかりませんがなんやかんや言ってこの歌壇の貴公子にはやはり正賞がふさわしいと思ってしまいました。
三日目の炊飯ジャーの干飯にお湯を注げば思い出す 君
高架下掠れた「FREE!」のFのあたり蹴っ飛ばす君力の限り
ゲームならゾンビが出てくるような角 曲がって現実確かめている
地下にある防犯カメラのデータから僕の人生再生してくれ
三冊の離婚の本を購わんネイルに住まうミッキー十匹
金として盗まれてゆく新品の思想の価値は実際的らし
現実に昨日干からび今日ふやけ コンクリートに挑んだ蚯蚓
カレーライスカレーうどんカレー丼 形がとけてゆくよ日常
飛沫あぐ水道の音聞きながらつぶやいている暴力のうた
国籍も肌も思想もジェンダーも共に仰いで晴れるのを待つ
川べりのよどみみたいなものだよと愛を説明し出す多摩川
終電の光を君と眺めおりそのまま銀河仰ぎ寝転ぶ
自らのまわりに円を描くごと死んだ魚は机を濡らす
君の排泄物とぼくの吐瀉物を引き合わせろよ下水処理場
自動車とバイパス工事と隣室の笑いの音を混ぜて休日
(佐佐木定綱「魚は机を濡らす」)
暴力的とも言える感情の爆発とそこから溢れ出る痛切な抒情が定綱さんの歌の特徴です。限界まで言葉を発するのを我慢し一気に取り返しのつかないような形で書かれたことがわかる歌です。こういった短歌の書き方は福島泰樹さんなども得意とするところで決して定綱さんの専売特許ではありません。ただ定綱さんの歌には年長歌人にはないはっきりとした新たな世代の特徴が表現されています。
端的に言えば現実世界に対して距離があります。「ゲームならゾンビが出てくるような角 曲がって現実確かめている」「地下にある防犯カメラのデータから僕の人生再生してくれ」といった歌にそれはよく表現されています。現実の手触りが遠い。遠くならざるを得ない世代の感覚が端的に表現されています。世の中には情報が溢れており日常を脅かすような数々の社会的事件が次々に起こります。それに対して即座に声を上げる人も増えています。また一昔前と違い個人が自分の意見や思想を表現するツールはいくらでもあります。そういった人の声がどうしても目立ってしまうのですが沈黙と紙一重の叫びを上げる人もいます。定綱さんは後者の方ですね。
「国籍も肌も思想もジェンダーも共に仰いで晴れるのを待つ」とあるように数々の思想や規範の行きつく先は現代では見えないのです。少なくとも不透明です。そのいずれかに荷担すればとりあえずの安心感は得られます。だけどどうしても信じ切れない人たちはいる。しかしまた表題作となった「自らのまわりに円を描くごと死んだ魚は机を濡らす」にあるようにいずれ円環と調和を描くだろうという予感はある。その現実への違和感と将来の円環の予感が現実世界への距離感となって表れていると言えます。
小学生のとき、将来の夢に「世捨て人」と書いた。世の中のニュースは暗いし、駆け引きとか利益とか嫉妬とかそういったものとは無縁で生きていたかった。社会も北朝鮮が軍事拡大を・・・・・・とかやっている時期だったので(今もあまり変わってないが)、人の生き死にの恐怖から、できれば社会などと関係のない生活がしたかった。
でも、二十歳を超えて、霞でも食わない限り世捨て人にはなれないことがわかってきた。世の中に棄てられる可能性は高いけど。
世を捨てられない人ならばもう世の中の酸いも甘いも味わって生きるしかない。その味を歌うか、歌わないか。歌人は常に世の中とどう付き合っていくかが問われている。
(佐佐木定綱 歌壇時評「「若い人」と社会」)
定綱さんの現実世界への距離感はしばらく前から連載が始まった歌壇時評でもはっきり表現されています。今号の時評のタイトルは「「若い人」と社会」ですが定綱さんは昭和六十一年(一九八六年)生まれですから十分若い。ただ時評からは同世代とその下の〝若い人たち〟の歌にシンパシーを抱きながら違和感をも持っていることが伝わります。社会への批判意識を抱きながらそれを回避したような作品を多く取り上げておられます。
歌壇は現象的に見ると口語短歌全盛時代です。ただ口語短歌の本質は文語を使うか口語を使うかといったレトリックの問題にはないと思います。一番重要なファクターは定綱さん的な〝現実世界への距離感〟でしょうね。現実世界の人や物や思想を一昔前の実存をもった存在として捉えられないのはもちろん短歌では重要な私性を歌っても距離ができる。その曖昧で苦しいと言えば苦しい状態に置かれた創作者たちが安住の地を求めるように繰り返すのが〝口語〟という符牒だと思います。ただ感性を口語というプロバカンダ的スローガンに落とし込むのは危険です。
少し余計なことを書けばすでに歌壇時評を担当している定綱さんに角川短歌賞正賞が授与されたことは人材不足を示唆しています。それは歌壇だけのことではありません。現代では完全に不況産業である文学の世界に参入してくる優秀な人材は減っています。はっきり言えばメディアは生き延びられても作家は生きるのに苦労する(食えない)時代になっています。ただ不況産業であってもあえて参入してくる作家の中には本当に優秀な人もいるわけで定綱さんはその一人でしょうね。それはまあ言いにくいですが〝匂い〟でわかります。
口語短歌はネットを中心に盛り上がっていますが言うまでもなくそこでのヒエラルキーは平等です。じゃあどこで序列がつくのかと言えば既存メディアの評価ということになる。残酷なことを言えばネットの〝仲間たち〟は常に既存メディアに認められるための抜け駆けの機会を狙っている。では認められたらどうなるか。そう簡単に仲間を裏切れない者は〝弱者たちの王〟として君臨しようとする。弱者の王は自分より弱い立場の作家たちに何らかの現実評価を与えることでその不安定な地位を少しばかり安定したものにしようとする。要するに本質的に権威に弱い。弱者の王が既存メディアで自分の作品を褒めてくれてもそれは保身だと知るべきです。創作者は基本的に自分のことしか考えていない。それを理解しなければ仲間という意識を持ってもムダです。
熱い犬という不思議な食べ物から赤と黄色があふれだす夏
かりかりと猫が何かを食べている その横を抜けて燈台へ 蟬
肩書きを詩人とされることがある太陽からは花粉の匂い
じわじわと階段のぼる岡井さんに気づいてしまう夜の公民館
転がったランドセルからはみ出した教科書たちよ夕闇の底
僕にだけ時間の帯が見えているけれど見えない振りして笑う
選評をするだけなのにひゃらひゃらと受賞者よりも声が裏返る
ポケットに電球入れてさまよっている八月の雨の吉祥寺
たぶんもう海に入れぬ岡井氏の歌が最高得票となる
僕たちの指を少しも傷つけずホットドックを攫っていった
(穂村弘「熱い犬」)
久しぶりに穂村さんの作品を読みましたがどこか冴えないなぁという印象を抱きました。今回の彼の作品と比べれは後先考えない若手口語歌人の作品の方が新鮮といえば新鮮ですね。「岡井さん」は多分岡井隆さんのことなのでしょうが穂村さんは今現在の岡井さんを高く評価しておられるのでしょうか。グズグズに見えないこともないのですが。そろそろ正念場かもしれません。
高嶋秋穂
■ 穂村弘さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■