斎藤都さんの文芸誌時評 専門文芸誌 『No.001 専門文芸誌について』をアップしましたぁ。文学金魚では現在サイトの改編中で、それにともない文芸誌時評も再編しています。『文芸5誌(純文学)』、『大衆文芸誌』、『カルチャー文芸誌』、『専門文芸誌』、『大学文芸誌』の5つのカテゴリに改編したわけですが、斎藤都御大に『専門文芸誌』の総論を新たに書いてもらいました。なお専門文芸誌とは『SFやホラーなどに特化した文芸誌のこと』です。

 

 極論を言えば、文学ジャンル、あるいは特定ジャンルの中のサブジャンルは、後に純文学やSFと呼ばれるようになる、ある強い指向を持った作家の資質によって成立している。優れた作家の資質が純文学やSFというジャンルを生み出すのであって、その逆ではない。簡単に言えば、作品を書くとどうしても純文学やSFになってしまう作家の資質がジャンルを成立させるということだ。どのジャンル(サブジャンル)でも、中核となる作家の作品は、資質とジャンル性が密接に結びついている。そのため資質=ジャンルである作家の作品は、作家論として展開されるときは、実質的に文学ジャンルを考慮されないことが多い。

(斎藤都)

 

石川も斎藤さんの書いておられるとおりだと思います。松本清張や有吉佐和子、筒井康隆や江國香織さんなどを、大衆作家や純文学作家、SF作家、恋愛作家と定義してもしょーがない。日本のサスペンスやSFのイメージは彼らの作品から生じているわけで、特定ジャンルの法則のようなものが優れた作家を生み出したわけではないからです。

 

ですから何かの〝型〟をなぞるのはダメなのです。もちろん型はテクニックでもあり、最低限の型=テクニックは身につける必要があります。しかし作家の表現欲求の核となる部分を型に押し込めたり変形させてしまってはいけない。そこは譲れない一線として意地を張り通す必要があります。型にはまった作品ほどつまらないものはない。

 

もちろん特定のメディアやジャンルで成功したいのなら、きっちり型を踏まえるのは一つの方法です。ただその方法を採るなら、とことん型に嵌める必要がある。そうすれば、なぜその型が必要とされるのか腑に落ちるまで考えることになり、型を破る可能性が出て来ます。漠然と型をなぞるからつまらない作品になる。大衆文学だけでなく、純文学小説でも意外と型にはまった作品は多いものです。

 

 

斎藤都 文芸誌時評 専門文芸誌 『No.001 専門文芸誌について』 ■

 

 

第04金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項

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