三田文學_No.015_01

 

 

 体制が変わってから、卒業生としては期待するものがある。以前の編集方針はまったく意味不明、今だから言うが、きれいごとに包まれた得体の知れなさ、そういう場合の常として私利私欲の匂いがした。天下の慶應の公器がなんでそんなことになってるのか、財務状況をつぶさにチェックしたいぐらいだったが。

 

 それに比べると、健全になったかもしれない。ただ相変わらずの不可思議な点は残る。相変わらずと言うべきでなく、別種のと言うべきだろうが、一つの共通点がある。すなわち編集方針がやっぱり見えない、ということだ。ここで言う編集方針というのは、書き手で言えばテーマということになる。

 

 書くべきテーマをとっくに失っているのに、書き手であるという立場の維持のためにのみ書き続けている者はいる。それと同じことが雑誌にも起きるのだろう。編集方針がないのに雑誌を発行する立場に立つというのは、何かの事情で押しつけられたのか、生活の足しになるのか、あるいは何らかの取り引きのやっちゃ場にするつもりかなどと、読者の想像を掻き立てないこともない。

 

 前体制の三田文学は、この三番目の空想を刺激して、それはそれでエキサイティングだったという評価も成り立つ。雑誌を読むというのは、何も中に収録された(退屈な)作品を読むこととはかぎらない。それが状況的なものだというなら、その雑誌が置かれた状況を読むという愉しみもあっていいし、そこで想像力を刺激された読み手=書き手がそれを元に面白い小説を書けば、それも雑誌が文学に貢献したことになろう。

 

 現在の不可思議な点は、以前と同様にラインナップの文脈が見えないということであるが、かといって、慶應出身者ばっかりよりいいんじゃないかというほどスジが見える作家を連れてきた感がないことだ。つまり以前と同じく、あまり見かけない名前が多くて、恣意的で方針の見えない目次なのだが、さりとて同人誌か会誌のようでもない。何だか20年ぐらい前の二流誌みたいなのだ。

 

 以前の三田文学にも「今」がなかったし、しかしそれは「時がない」感じだった。そんなものは端からインタレストの外である、という。それに対して現在の三田文学の「今」のなさは、過去の、それも特に振り返るべき価値もない過去の匂いがする。なんでわざわざ、そんな過去を引っ張り出すのか。

 

 そんなことに情熱を注ぐ編集部があるとは思えず、すなわちこれは情熱のなさの結果のように見える。もちろん変な情熱で胡散臭い誌面であるよりはいい。それを脱したお祝いとして、愛する三田にはっきり言うと、二流・三流誌を退職したロートル編集者だらけの編プロに丸投げしたように見える、ということだ。

 

 もちろん赤字の文芸誌を編プロに外注するというのはリアリティがなくて、なのになんでそう見えるのかということはまた、想像力を刺激しないこともない。ロートルの編プロにしたって、自分たちの過去の人脈パッケージを当てはめるしか能がないというのは、老人力に劣る。そこへ誰か救世主が現れて、というプロットなら安いテレビドラマにはなるが、数字が取れるかどうかは裏番組次第である。

池田浩

 

 

 

 

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