SPAC『真夏の夜の夢』

星_No.017_01

 

 

フェスティバル/トーキョー15主催作品

 

於:にしすがも創造舎

観賞日:2015年11月3日

 

演出 宮城 聰

作 ウィリアム・シェイクスピア 小田島雄志訳『夏の夜の夢』より

潤色 野田秀樹

音楽 棚川寛子

出演

赤松直美、池田真紀子、石井萠水、泉 陽二、大高浩一、春日井一平、加藤幸夫、河村若菜、木内琴子、貴島 豪、小長谷勝彦、桜内結う、佐藤ゆず、柴田あさみ、鈴木真理子、大道無門優也、たきいみき、武石守正、本多麻紀、牧山祐大、森山冬子、吉見 亮、若宮羊市、渡辺敬彦(SPAC)

照明デザイン 岩品武顕((公財)埼玉県芸術文化振興財団)

舞台美術デザイン 深沢 襟(SPAC)

衣裳デザイン 駒井友美子(SPAC)

音響デザイン 加藤久直(SPAC)

技術監督 村松厚志(SPAC)

制作 仲村悠希、板垣朱音、丹治 陽(SPAC)、三竿文乃、河合千佳(フェスティバル/トーキョー)

製作 SPAC – 静岡県舞台芸術センター

協力 NODA・MAP

 

 

 客席近くまでせり出した長方形の舞台上には、無数のポールが竹林のようにわさわさと生えている。『真夏の夜の夢』の舞台である妖精の住まう森は、ポールに設えられた梯子状の足場によって縦横に自由に俳優を配置することができ、観客の目には白を基調にした直方体の空間に俳優たちが浮き沈みし、夢幻境に浮遊するような効果が得られる。妖精を演じる俳優の衣装には黒い染みが浮かんでいる。舞台美術は新聞紙を素材とし、いつの朝刊のものかわからない大見出しなどがあちこちに散見される。無数の活字印字が白一色の空間に灰色のグラデーションを忍ばせる。これは演出家の意図である。

 

 11月3日の公演後、アフタートークで演出の宮城聰はこの舞台美術の絵解きをした。本作はシェイクスピア原作の『真夏の夜の夢』を底本にして野田秀樹が筆を加えた翻案作品である。最大の加筆は悪魔メフィストフェレスの登場であるが、この悪魔は森の妖精パックに化けて原作の筋立てを滅茶苦茶にしてしまう。役を奪われたパックは瓶詰めのホムンクルスとなって劇の外側に追いやられる。

 

メフィスト

とことん、あいつらについていき、てんてこまいをさせてやろう。沼地も茂みも通り抜け。

メフィスト・パック

茨も藪もかいくぐり、俺はみごとに化けてやろう。行く先々で化けてやろう。

パック

まずいぞ、まずい。俺のセリフをまたパクった。セリフばかりか、パックの役までパクる気だ。

(野田秀樹『廻をしめたシェイクスピア』p.39)

 

 メフィストフェレスによる劇世界への介入は翻案者による戯曲への介入の隠喩であり、原作を勝手に書き換える翻案行為が本作の根源的なテーマである。ゆえにメフィストフェレスは野田秀樹の化身、そして作中で「物語」の力によって一度は森を破滅に追いやりながらもその救い手となる主人公・そぼろは、劇世界とその外とをつなぐ存在として描かれる。宮城はこの関係を衣装で表現する。メフィストは黒い衣装、そぼろは灰色の衣装、ほかの人間たちは白い衣装、妖精たちは新聞紙でできた「言葉」の衣装である。森の美術の素材も新聞紙なら、そこは「言葉の森」であり、白、灰色、黒に身を包んだ森への闖入者たちとは異なる存在であることが視覚的に表象される。

 

 端的に言えばきわめて祝祭的な舞台である。俳優自ら撥を取るパーカッションと、度を越して溢れ出る言葉遊びが絡み合い、観客は始終圧倒され、目も耳も忙しく稼働しなければならないものだから、それぞれの登場人物の拠って立つ象徴性を丁寧に咀嚼している暇はない。破綻すれすれに追いやられる筋立てと思惑の行き違いが緊張を高めていき、そこから解放されるクライマックスの安堵には、素晴らしい夢を見たような気分に包まれる。

 

 しかし、うえのパックの台詞にもあるように、本作は原作に対する翻案行為を演劇化するというメタ的な視点から構成されている。パックのように劇外に追い出されたものの視点から、芝居台本がいままさに書き換えられて筋書きが掻き乱されると指摘されるとき、我々は原作が翻案によって壊されていく様を目撃しているのだ。この危機感が、祝祭喜劇に酔うばかりでは済まされないような醒めた感覚を与える。夢幻境に実在の翻案者の影がちらつく。その顔はメフィストさながら悪魔的で、しかし寂しげに苦味を噛みしめるようでもある。

 

 メフィストを包む黒い衣装は、突き詰めればインクの黒である。「言葉の森」の黒い印字の抽象だ。シェイクスピアの原作は印刷物でしか残っていない。文字だけの世界。またエリザベス朝当時の演劇文化においては、俳優登場に先立って設えられた大掛かりな舞台美術などもほとんど用いられなかった。俳優が登場し「ここは森の中だ」と発話する。すると何もない舞台が森に変わる。常に言葉が先行する、劇世界とは言語による修飾であった。「言葉の森」を創出した宮城の意図もそこにあるのだろう。森の中で出来する不思議な現象の数々も、先行する言葉が引き起こすものだ。

 

 たとえば妖精たちが人間の目に姿を見せるとき、彼らは先祖伝来の一張羅である「逆かくれみの」という道具を用いる。しかしこれを表象する小道具は用いられない。「逆かくれみの」は「逆かくれみのを着る」という言葉とそのジェスチャーによって目に見えない形で表象され、身にまとった妖精たちの姿はその以前と何変わるところはないが、人間たちにはあたかも突然目の前に現れたかのように視認される。このように、劇世界の出来事は言葉によって構成され、妖精たちはその存在そのものが言葉によって紡がれていると言っていい。ゆえに彼らは新聞紙をまとうのだ。そしてこの劇世界の原理を逆手にとって、メフィストは妖精王らの言葉を担保にした契約を執り行う。契約者たちの迂闊な言葉が実現されることで森は混乱に陥っていく。メフィストは自ら「森の清掃局員」を名乗る。彼の元には言葉にならなかった言葉、口に出さずに呑み込んだ言葉のゴミが届くという。我々が吞み込む言葉はいつも危険な言葉である。口にすれば最後、何かを壊してしまうような、とがった、呪わしい言葉の数々。喉元まで出かかる時、それらは内なる声を伴って言葉の形態をとっている。悪魔の聞き届ける声である。そして問題は、そのような言葉がもうすでに言葉になってしまっていることであり、我々は発話する以外にも言葉の表象手段を持つではないか。つまり、文字が悪魔的言語のはけ口となる。文字はインクを求め、黒い文字の集積がメフィストを形成する。メフィストの暗躍はゆえに我々には心地よい毒気を含む。舞台上でただ一人、独自のルールで消えたり現れたり化けたりする彼は「書く欲望」そのものを体現する。

 

 メフィストに対抗して混乱を鎮めるために、妖精たちは人間たちの前に姿を現すことで状況を打破しようと試みる。そのためにめいめいの「逆かくれみの」を用意するのだが、メフィストに先手を打たれて燃やされてしまう。「逆かくれみの」とは言葉の織物であろう。着脱によって「言い表したいと欲するもの」を見せたり隠したりする支配力を持つ。メフィストはこの力を妖精から奪う。打つ手はなくなったかに見えた妖精たちだったが、まだ「逆かくれみの」の灰が残っていた。灰をかぶって姿を表し、混乱の元となった契約を破棄する。しかし妖精王たちの契約を破棄してもまだ混乱は収まらない。メフィストはそぼろとも契約を交わしていた。人と悪魔の見えない契約の破棄は骨が折れる、見えない契約は見えない力で突き返すしかないという。そこでそぼろは、いままで呑み込んだ危険な言葉で「物語」を作ることになる。「物語」は森に火を放ち、「言葉の森」は灰になっていく。森を構成する新聞紙は燃やされる宿命を暗示してもいたのだ。

 

 「言葉の森」の火事は、そぼろがふたたび「物語」を紡いで雨を降らせたことで、鎮火する。呑み込んだ言葉の中に、世界を慈しむ美しい言葉を探したのだ。しかし雨は妖精たちのまとっていた「逆かくれみの」の灰をも洗い流してしまう。土にしみ込んだ灰はやがて森の木々に循環し、恋人たちを祝福する森のさえずりになる、妖精たちはそう言い残して消失する。あとには人間だけが残る。森の焼け跡にメフィストの姿はない。彼もまた言葉そのものなのだから、森や妖精たちとともに洗い流され、消失する。ならば、メフィストに化身した翻案者も、言葉を失って消失するのか。

 

 翻案者のインクは修正の朱字ではないし、原作の印字の黒さに匹敵する黒々とした力であればこそ、メフィストはあれほど漆黒に表象される。翻案は原作に対し、ひとつの批評として等価に対立する。翻案は、後代の産物であるがゆえに、経てきた時間空間によって変形した一つの「読み」を原作になぞらえて提示する。その意味では翻案は翻訳であるし、翻訳は翻案の一形態であるとも見なせる。ただし翻案は、翻訳ほど原作に忠実でなくてもいい。忠実さよりも批評性が先立つ書き換え行為である。

 

 野田秀樹の翻案は、メフィストの登場によって翻案行為そのものを批評する翻案であった。メフィストが行う書き換えは翻案者の悪魔的暴力であるが、ある種の自己批判として提示されている。しかし翻案者とは読者の一形態である。翻案者の暴力は、「読む」という行為に伴う、どんなに抑え込んでも決してゼロにはならない暴力なのであり、野田はその行為を悪魔に化身させて舞台上に提示している。いかに希薄しても透明にはならない黒い粒子として。それが筆先に濃縮されたときに翻案が起こる。

 

 しかし、シェイクスピアの原作以来、四百年余続く森の中で暴れまわった翻案者は、まるでそのインクを自ら洗い流すかのように幕を引く。力強い声は儚く消える、芝居は食事のように公演ごとに繰り返される。メフィストの言葉は演劇の言葉である。マクベスの言うように、演劇は言葉が蝋燭の火の如く燃え上がるときに浮かぶ影に過ぎないのなら、翻案戯曲は火を熾した言葉のその灰なのだろう。灰をかぶって俳優は束の間舞台上に姿を見せる。

 

 そもそも翻案は、原作に対する批評であるがゆえに、決して原作を損なうものではなく、原作もまた翻案によって損なわれることはない。翻案は原作を照らす燈火であるといえば、燃え上がる森の炎との関連も見出されようか。ゆえに本作においても、翻案者の言葉は火を放った後に雨を降らせ、翻案戯曲の焼けあとの灰を洗い流し、原作の土壌に染み渡らせる。ひとつの批評を吸収して、原作の森はいっそう豊かにさざめく、その循環を支えるのが翻案者の仕事であるという翻案論に本作は着地する。それが少々アクロバットで祝祭的で、悪魔的に行われたというわけだ。

 

 ならばメフィストはその力を見せつけたこと、存在を示したことを誇って、満足そうに舞台を去ってもいいだろう。しかし彼はひっそりと孤独に消失する。その寂しさについて、そぼろが森に火を放つことになる「物語」を一部引用する。

 

そぼろ

・・・『だから、その森には、とてつもなく人に飢え、人に不満をもった、人の目に見えない動物が生きていました。やがて腹をすかしたその目に見えない動物は今度はバクバク、バクバク森を食べはじめました。・・・』

(p.77)

 

 森の中でだれにも見えなくなってしまった孤独な動物は、空腹という寂しさに耐えかねて森を食べ尽くす。しかし食べてしまってからも寂しいままである。誰にも見えない、人に理解してもらえない寂しさは、我々がみな抱えているものだ。呑み込む言葉の中にそれがある。我々の内なる声の、もっとも深いところでは、言葉にならない声が嗚咽している。その音に耳を傾けるのは、言葉を言ったり、文字に書きつけたりしたあとの、言うべき言葉をなくした刹那の静寂だけ。言っても、書いても、伝えきれないものが残る。言ったがために、書いたがために、伝えられないということがある。なんらかの形に留めておくことのできないそれはどこか煙に似ている。火の燃え跡の灰から立ち昇って、あとかたもなく消えていくもの。

星隆弘

 

 

 

 

廻をしめたシェイクスピア 21世紀を信じてみる戯曲集

 

 

 

 

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