岡野隆さんの『BOOKレビュー・詩書』『No.019 恐らく正直な句集なのだろう-曾根毅句集『花修』』をアップしましたぁ。曾根毅さんの句集『花修』の書評です。『花修』は第四回芝不器男俳句新人賞を受賞した句集です。

 

石川、詩の世界のことはやっぱりよくわからんです。特に俳句界には、目が点になるほど威張っている俳句宗匠の方が数多くいらっしゃるわけですが、その理由がよくわからなひ。岡野さんは、「俳人のアイドルが、芭蕉から高浜虚子に変わったんだろうね」とおっしゃっていました。もそっと突っ込んで聞いたら、「一般的読者の俳人のイメージは世捨て人・芭蕉だけど、現実の俳人が目標としているのは、多くの門弟の上に君臨して現世的栄誉等をも一身に受けた虚子なんだろうな」といふことでした。なるほどねぇ(爆)。

 

俳人に限らず詩人には世捨て人的なイメージが強いです。一種の僧侶的イメージです。しかし昔から僧侶の世界ほど生臭いものはなひ(爆)。現世を捨てたはずなのに、その中で熾烈な権力闘争を繰り返し、裏返しの権力者として現実世界で力を持とうとして来たわけです。人間の世界ですからそれは今後も変わらないでせうが、風狂の詩人として、とことん捨て去る詩人がいなくなってしまったといふことでせうね。生臭坊主的な詩人さんたちが、親兄弟のように芭蕉や良寛や宮沢賢治について語ってもなんだかな~といふところはありまふ。

 

また小説は基本読みやすくて誰でも理解できなければなりませんが、詩はそうではありません。それを悪用して「作品の善し悪しはよくわかんないけど、詩の世界じゃそれなりの詩人として通っているらしひ」といふ評価を作為的に作り出している人もいらっしゃる。人脈などを駆使すれば短い人生、お気楽に暮らせると思っておられるのでせうなぁ。でも小説家もその読者も、本当にいい詩を書いている作家なら評価するものでありまふ。

 

立ち上がるときの悲しき巨人かな

かたまりの造花のあたり春の闇

さくら狩り口の中まで暗くなり

白菜に包まれてある虚空かな

死に真似上手な柱時計かな

白梅や頭の中で繰り返し

棒のような噴水を見て一日老ゆ

ところてん人語は毀れはじめけり

形ある物のはじめの月明り

馬の目が濡れて灯りの向こうから

 

曾根毅さんの句は魅力的です。ただまだ戦いは始まったばかりです。なんやかんや言っても、作家は取り返しがつかない形で処女作品集を出してから本当の意味での戦いが始まるのです。特に詩人さんの場合はそうですね。

 

 

岡野隆 『BOOKレビュー・詩書』『No.019 恐らく正直な句集なのだろう-曾根毅句集『花修』』 ■