なんとバランスの悪い句集だろう。それが曾根毅の『花修』を最初に読んだ時の率直な感想だった。しかしそれは二十一世紀初頭という難しい時代を生きる俳人の、正直な表現なのではないかとも思う。
『花修』は「花」、「光」、「蓮Ⅰ~Ⅲ」の五部構成である。平成十四年から二十六までの十三間に作られた作品が年代順に収録されている。ひところ俳句の世界でも自由詩や小説の世界と同様に、あるテーマで作品集をまとめることがはやった。しかしここに来て、老若男女を問わず、書いた年代順に淡々と句集をまとめる俳人が増えているようだ。それは自ずから作者の個人年代史を構成することになる。作者の個人史は当たり前だが同時代史と重なっている。
立ち上がるときの悲しき巨人かな
春の水まだ息止めておりにけり
くちびるを花びらとする溺死かな
何処までもつづく暗黒水中花
玉虫や思想のふちを這いまわり
夕ぐれの一人の海の時雨かな
快楽以後紙のコップと死が残り
(「花」[平成十四年~十七年])
寒鴉内なる黙を探しけり
かたまりし造花のあたり春の闇
さくら狩り口の中まで暗くなり
万緑や行方不明の帽子たち
手に残る二十世紀の冷たさよ
白菜に包まれてある虚空かな
死に真似上手な柱時計かな
(「光」[平成十八年~二十年])
「花」と「光」は平成十四年から二十年の七年間の作品をセレクトした初期句篇である。有季定型句が多く、切れ字も「けり・かな」を多用したオーソドックスなものだ。現代はその本質を捉えにくい。俳句に即して言えば、現代を的確に反映した形式(修辞)や内容表現がなかなか生まれにくくなっている。そのため奇抜な装丁や、一過性としか思えない無理な表現で人目を惹こうとする句集もだいぶ前から現れている。しかし作者は、少なくともそのような形で注目を浴びることを望んでいないようだ。正面から俳句に向き合おうとしている。だが網で水を掬おうとするかのようなもどかしさがある。
「くちびるを花びらとする溺死かな」、「快楽以後紙のコップと死が残り」に表現されているように、作品には死の影が濃い。もちろん作者が死に取り憑かれているわけではない。「白菜に包まれてある虚空かな」、「死に真似上手な柱時計かな」にあるように、表現の中心とすべき主題がなかなか捉えられないのである。作家の思考は「何処までもつづく暗黒水中花」、「玉虫や思想のふちを這いまわり」のように、思想を模索しながら堂々巡りを繰り返すことになる。それは現代を生きる若い作家による、正直な自己認識であり同時代感覚であるだろう。しかし人はこのような空虚な感覚にいつまでも耐えることができない。
薄明とセシウムを負い露草よ
桐一葉ここにもマイクロシーベルト
燃え残るプルトニウムと傘の骨
放射状の入り江に満ちしセシウムか
布団より放射性物質眺めおり
生きてあり津波のあとの斑雪
風花の我も陥没地帯かな
(「蓮Ⅰ」[平成二十三年~二十四年])
「蓮Ⅰ」には東日本大震災と福島原発事故を詠んだ句がかなりある。文学者が同時代に起こった社会的事件を作品で表現するのはとても大切なことである。しかし自己の思想・観念を総動員した作品として現代を捉えきれない作家が、その空虚の埋め合わせとして社会的事件を利用するのなら、それはさらに表現主題を見失う危険な試みになるだろう。
天災によってもたらされた一瞬の災厄に対する人間の反応は平板である。それは圧倒的に悲惨だ。それ以外の感情表現などない。現場にいればそれなりにリアルな表現を生み出すことができるが、それはジャーナリスティックな情報が貴重なだけのことである。人間存在の奥深さは災厄以降に現れる。天災に乗じてあこぎな金儲けをしてしまった、原発事故の保証金でパチンコやキャバクラ依存症になった主婦や夫がいるといった現実が、人間存在のある真実を露わにする。
社会的事件は常に〝だから?〟という形で立ち現れる。「原発反対」、「原発賛成」と明言しても、すぐにそれは〝だから?〟という無数の問いに取り込まれる。その問いに対して少しでも現実的な解答を得ようとすれば、人はその一生を費やさなければならないはずである。生活のために働くのと同様に、仕事として特定の社会問題に取り組む必要がある。社会問題の根は深い。声高な賛成、反対の言明で済むのは社会的強者だけである。創作者の場合、大家として社会的認知を得ているが、もはや現実世界との肉体的関わりを失いつつある者だけが、美しい遺言とも言える透明な声を上げることができる。
「蓮Ⅰ」に収録された津波と原発事故を巡る作品は、他の作家の大同小異の作品と同じように、すぐに人々の記憶から忘れ去られるだろう。文学とは別に社会問題に取り組まなければそれは本質的解決を見ない。また文学は思想信条の表現のための道具ではない。同時代に起こった社会的事象の本質を、未来にベクトルが伸びている形で言語表現できなければ単なる同時代写生俳句で終わる。「風花の我も陥没地帯かな」の方がまだ救いがある。社会問題を作品に取り込んでも、作家が抱える本質的問題は何も変わっていない。
枯蓮の匂う齢となりにけり
白梅や頭の中で繰り返し
永き日や獣の鬱を持ち帰り
水すまし言葉を覚えはじめけり
棒のような噴水を見て一日老ゆ
ところてん人語は毀れはじめけり
凭れ合う鶏頭にして愛し合う
(「蓮Ⅱ」[平成二十五年])
梅に種あれば舟歌恋しけれ
原子まで遡りゆく立夏かな
夏の蝶沈む力を残したる
白装束梅雨の最中を渡るなり
この世には多く遺さず蟬しぐれ
形ある物のはじめの月明り
馬の目が濡れて灯りの向こうから
(「蓮Ⅲ」[平成二十六年])
「蓮Ⅱ」、「蓮Ⅲ」は平成二十五年と二十六年の近作を集めた章である。通読すればわかるように、作家の修辞能力は格段に上がっている。俳句がうまくなっているのだ。しかしそれもまた諸刃の刃である。ある表現に真摯に取り組めば、表現技術はある程度の水準まで比較的簡単に上げることができる。特に俳句のように定形にうるさいジャンルではそうである。しかし作家のオリジナリティは、うまい技術ではなく、うまさを通り越した確信的な崩れの中で表現されるものである。
「棒のような噴水を見て一日老ゆ」、「ところてん人語は毀れはじめけり」、「この世には多く遺さず蟬しぐれ」にあるように、まだ四十歳を少し過ぎたばかりの作家は老い始めているようだ。それもまた作家が選ぶ多くの選択の一つであり、他者があれこれ口を挟むべき事柄ではない。ただその希薄な現代認識と自己認識は、「馬の目が濡れて灯りの向こうから」という無人称的な秀作を生むこともある。結局作家の表現は一点突破なのだ。その手応えは書いてしまった後で作品が教えてくれる。わからないならわからないまま、希薄なら希薄のまま、ただ突っ走り空虚に抜けてゆくのもまた一つの選択である。
今回は少し厳しい内容になった。第四回芝不器男俳句新人賞を受賞した句集に対するはなむけにはあまりふさわしくないかもしれない。もちろん他者から作品を評価されるのは誰にとっても嬉しく、喜ぶべきことである。しかし詩歌の世界では賞はほとんど何の役にも立たない。二つや三つ賞を受賞すれば誰でもわかることだ。賞が現実生活を潤すことは少ないし、活躍の場が飛躍的に増えるわけではない。もちろん賞などとは関わりのない、作家の文学活動に本質的影響を与えることもない。曾根さんは真面目な俳人だと思う。彼は処女句集という取り返しのつかない船出をした。もう後戻りはできず少しでも先に進むしかない。僕もまたこの作家に大きな期待を寄せている。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■