池田浩さんの文芸誌時評『No.009 三田文学 2015年冬季号』をアップしましたぁ。『世界文学とマイノリティ』といふ特集が組まれておりますが、池田さんはそれについて、「トレンドがない、と言っているようなものだ。何もないから包括して、「世界」とでも言わざるを得ない。かくも見事に文芸ジャーナルは思想的に凪の状態にある。・・・「世界文学」という言葉には、大本営発表のような空虚さがあるが、現在の救いは、どうやら誰もそれを信じていないようだ・・・それは現代の健康なのだ、と思える。・・・しかし「世界文学」という概念がインチキだ、というのではない。むしろそれは正しい。ただ、その正しさに思想がない。・・・文学が社会の状況、文学の状況を名付けるとき、何らかのスタンスが示されるものだが、それがない」と批評しておられます。
確かに数年前から文芸誌で〝世界文学〟といった特集をみかけるようになりました。んで読んでみると、それほどカルチャーショックを与えるやうな作品が掲載されているわけではありまへん。日本のアニメヲタクで日本にあこがれている人(もち生粋の外国人)が、日本への幻想とそれを打ち破る現実に十分意識的だったりするといった内容の作品まであるんですなぁ。世界文学といっても現在の世界は情報的にはおっそろしく狭くなっております。世界文学を取り上げる際に、メディアにも文学者にも「思想がない」という池田さんの批評はその通りだと思います。手詰まり感を世界にまで拡げてもしょうがないです。
文学を含めた現代社会の焦点が情報化にあるのは確かです。文学者はもちろん、文学メディアもそれをどう既存の文学風土に接続してゆくか、取り込んでゆくのかが現代文学の大きなポイントになっているといふことです。様々な技術的問題をクリアしなければならないわけですが、基盤になるのは情報化社会に対する思想でしょうね。それがなければ中心を失って文字通り情報が拡散してしまう。ただま、我田引水ではないですが、文学金魚のように思い切った文学の情報公開に乗り出せば、どなたでもかなりの程度まで既存の文学風土を相対化して認識できるようになるのは間違いなひことだと思ひます。
■ 池田浩 文芸誌時評 『No.009 三田文学 2015年冬季号』 ■