釈照太さんの詩誌時評 『 No.014 角川 『俳句』 2013 年 05 月号』 をアップしましたぁ。どうやら江里昭彦さんの 『角川書店「俳句」の研究のための予備作業』 を巡る考察が続くようです。しっかし文学金魚は 『角川俳句』 さんにケンカを売るつもりはありませんよぉ。仲良くしたいですぅ。俳壇で 『角川俳句』 さんが一人勝ちして見えるとすれば、それは他のメディアが力不足だってことでもあります。不特定多数の著者、読者を抱えるメディアには特定の顔はありません。メディア批判は自己の立場・思想を確認するためにはある程度有効だと思いますが、批判が目的化すると本末転倒になってしまひますね。
不肖・石川、前衛派の俳人さんたちの 〝高柳重信コンプレックス〟 に、ちょっと食傷気味です。重信の功績は、① 実作者兼理論家として前衛俳句を大系化したこと、② 前衛俳人を束ねて伝統俳句に対抗し得るメディアを作り上げたこと、に要約できると思います。① については前衛の志を持つ俳人が、今も新しい俳句の表現を真摯に模索しています。でも ② については尻込みしてしまう。重信のような俳壇政治能力と、一癖も二癖もある俳人たちを惹き付ける人間的魅力を持った人はなかなかいないわけです。なので重信コンプレックスが生じる。① は継承しているので、どうしても ② の方に目が向く。それが既存のメディア批判につながる。でもそれではどっちつかずだな。
自分には能力がないと見切るのも能力の内です。② のような俳壇政治能力も人間的魅力もないのなら、① に専心すればよろし。重信はいわば一人メディアです。確かにメディアによって前衛俳句を喧伝する能力に長けていましたが、それを可能にしたのは彼の作品と理論です。だから前衛派の俳人の中には、作品 (と理論) が優れていれば、俳句界は変えられるはずだという考えが根強いわけです。しっかしホントにそれを信じてるのかなぁ。他者への批判はたいていの場合、自己の能力への苛立ちです。本気で仕事をするのが一番大事なのであり、それをメディアを通して喧伝するかどうかは二次的問題です。
■ 釈照太 詩誌時評 『 No.014 角川 『俳句』 2013 年 05 月号』 ■