釈照太さんの詩誌時評 『No.011 角川 『俳句』 2013年02月号』 をアップしましたぁ。角川 『俳句』 さんは紆余曲折はあれ、伝統俳句の牙城的雑誌です。いわゆる俳壇は、いつも角川 『俳句』 さんと共にあったと言ってもいいでしょうね。それは素晴らしいことです。物事は功罪の両面で見た方がいいですが、俳句界で角川 『俳句』 さんが果たした役割は、圧倒的に 〝功〟 の方が多いと思います。
ただ伝統俳句が有季定型を尊重するあまり、次第に伝統墨守の姿勢に傾いていき、俳句を巡る思考や創作が低調になっていった面があるのも否めません。俳句の 〝習い事化〟 などがその典型です。有季定型という 〝型〟 があるから俳句は習い事として楽しめるわけです。これにも功罪ありますが、詩の世界では作者と読者層がほぼ完全に一体化していますから、習い事として俳句を始めた作者が大勢を占めるようになると、どうしても作句技法などの初心者向け情報が増えてしまいます。俳句界をリードするはずの俳人たちの思考が、〝俳句文学〟 から 〝俳句技法〟 の方にどんどんそれていってしまうわけです。
そのような俳句界特有の問題を、釈さんは『この辺で腰を据えて、いちど角川 「俳句」 そのものについて考えを巡らせ』 ることで検討しようとしておられるようです。もちろん角川 『俳句』 さんが中心になって作り上げてきた俳句界の 〝現実〟 は無視できませんが、本質はいつの時代でも趣味や習い事化しやすい俳句と、文学としての俳句の問題であることは言うまでもありません。
とまぁ杓子定規なことを書きましたが、不肖者の編集者・石川はもそっと意地悪かな (笑)。メディアを一種の権威と措定して、それに戦いを挑むのはいつの時代でもカッコイイです。でもたいていは体制内反体制ですねぇ。大メディアからお声がかかると、すぐに迎合して自らを権威化しようとする作家が大半です (笑)。安易なメディア批判は危険です。高柳重信さんが偉大なのは、前衛俳句を確立したのはもちろん、彼が新たなメディアを作り上げたことにもあり、その営為にも功罪あることを忘れてはならんと思いますですぅ。
■ 釈照太 詩誌時評 『No.011 角川 『俳句』 2013年02月号』 ■