小原眞紀子さんの連載評論 『文学とセクシュアリティ 第009回』 『「須磨」天上から海へ』 をアップしましたぁ。『源氏物語』『須磨』の巻の読解であります。『須磨』は『源氏物語』の物語の頂点であり、ターニングポイントにもなっているようです。それを小原さんは〝エクリチュール・フェミニン〟の概念で読み解いておられます。
〝エクリチュール・フェミニン〟は社会改革運動、つまり女性解放・地位向上運動と連動した〝フェミニズム〟や〝ジェンダー〟とは異なる概念です。アメリカン・フェミニズムはほとんど男性を〝敵〟と捉える闘争的な姿勢を持ちますが、それは自由平等を理念として掲げながら、アメリカでは女性差別(蔑視)が根強くはびこっているからです。
ジェンダーも同様で、それは基本的に男女の性別を基盤にした概念です。ただ性別と性差は違います。生物学的な性別だけを論じるなら問題は比較的単純ですが、性差をそう簡単に社会から要請される男性性と女性性の役割分担に分類できるはずもなく、学問としては歯切れの悪いものになるのが常です。性差は演繹的に考察しても帰納的に分析しても簡単に捉えられるものではないわけです。
エクリチュール・フェミニンは、原理的には性別と関わりがありません。デュラスのような女性作家がその代表であるために、フェミニズムやジェンダーと混同されがちなだけです。小原さんが書いておられるように、男性性と女性性(性差)はテキスト曲線的な概念として捉えるのが恐らく正しい。性別に関わりなく性差は人間の心理に内在するというのがエクリチュール・フェミニンの概念です。
日本も実社会のシステムは男性社会です。しかしそれを根底から脅かし切り崩すのはエクリチュール・フェミニン的な欲動です(女性が主要な役割を果たすという意味ではありません)。また堅牢な塔のような秩序としての男性性と、それを浸食し打ち毀す女性性をダイナミックに往還する作品が優れた小説と呼ばれてきたのです。
■ 小原眞紀子 連載評論 『文学とセクシュアリティ 第009回』 『「須磨」天上から海へ』■