金魚さん(齋藤都代表)の『ファウスト』総評と、佐藤知恵子さんの『オール讀物 2012年1月号』時評の2本をアップしましたぁ。今まで原則として毎日1コンテンツをアップしてきましたが、これからは数本まとめてアップすることもあると思います。著者の方が増えて、コンテンツが少しずつ多くなってきているからです。僕も忙しくなりますが、こういう忙しさは大歓迎であります。
で、『ファウスト』、確かに現在の出版界を象徴している文芸誌だと思います。『ファウスト』の特徴は編集主導型文芸誌ということです。金魚さんが書いておられるように「書き手も読者も存在が薄れる中で、ただ「編集部」だけが「雑誌創作者」としてあろうとする」雑誌です。
雑誌が売れなくなった時代に、編集者が強力な編集権を行使して盛り返そうとするのは自然な流れです。ただ編集者が攻めに出られる手段は、原則として著者をどう選択するのかと、どんな特集を組むのかしかありません。しかし著者の選択肢は限られています。特集にも限界があります。特集がある程度の効果をもたらすのは、時間をかけて一つのテーマを掘り下げた時だけです。でもそれを毎月やるのは難しい。
結局のところ、編集権には限界があります。よく作家を育てると言いますが、お手伝いできるだけのことです。絶望的な言い方をすれば、編集者は優れた作家が現れるのを待っているほかない。また編集権が強くなればなるほど、作家が「作品の発表決定権を、組織の一社員に過ぎない出版編集者に譲り渡し」てしまうようになるのも確かです。書き手はますます既存のメディアにすがって、その中で出世することで「作家になろう」とします。これは悪循環です。強力な編集権が作家の個性を押し潰してしまうからです。
金魚屋には強力な編集権というものはありません。文学綜合主義と文学原理主義という2つの方針があるだけです。作家さんたちにはそれぞれが目指す文学の姿をプレゼンテーションしていただき、納得できるものであれば作品を掲載します。文学は一筋縄ではいきません。文学における目標を低く設定しているがゆえに社会的成功をおさめる作家もいれば、高く設定しているために評価の低い作家もいます。良い作品かどうかを決めるのは読者ですが、まず作品の文学的価値に対する作家の信念がなければ編集も出版も成り立たないと金魚屋は考えます。信念のある作家さんをアシストするのが金魚屋の役割です。