来世はあるのか、人は悟ることができるのか。死の瞬間まで何かを求め迷い続ける人間に救済は訪れるのだろうか。そもそも人間は迷い続けている自己を正確に認識できるのだろうか・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家の肉体思想的評論第三弾。
by 金魚屋編集部
五.「愛」において「貧しき者」
ガリラヤのカナで婚礼があった。
弟子とともに招かれたイエスは、そこで最初のしるし(奇蹟)をおこなう。(新約聖書・ヨハネ伝二、以下同じ)
母マリアがそこにいて、イエスにいう。「ぶどう酒がなくなりました」イエスは母にこう返す。「婦人よ、それが私とあなたに何のかかわりがありましょう、わたしのときはまだ来ていません」母は給仕人たちにいう「何でもあのひとの言うとおりにしなさい」するとイエス「その石がめに水をいっぱいにしなさい」こうしてぶどう酒で満たされた六つの大きな水がめが運ばれた。そのことを知らない宴会係は味見するなり感心し、花婿を呼んでこう言った。「たいていの人は先に良いぶどう酒を出して、酔いのまわるころに下等なものを出すのに、あなたは良いぶどう酒を今までとっておいたのですね」
このエピソードに、思い思いに喩えやメッセージの象徴を読み込むことは可能だ。だが、すなおに受けとめるのがこのエピソードにはもっともふさわしい。母マリアの無邪気ともいえる信頼に、マダム、いちいちそんなことまでわたしと何のかかわりがあるのです、わたしの出る幕じゃありませんよといったん突き放しておきながら、やれやれと苦笑して応じるイエスの姿を、筆者は思い浮かべずにいられない。このときかれは、神とひととのあいだを行きつ戻りつしている。死せるラザロの前で、オリーブ山で、そして十字架上でのかれの取り乱したふるまいは、これとまったく同じである。
かれはこの世での最初のしるしを、病み悩める人びとを癒すためではなく、信仰薄き人びとの眼を開かせるためでもなく、母の近親者とおぼしい故郷の人びとのプライベートな祝宴のためにおこなった。イエスは何よりもまず、人びとに交わってともに飲み食い、ともによろこんだ。あるときはなげき、憤り、ラザロが死んだときには涙を流してかなしんだ。断食や苦行はこのまなかった。むしろ弟子や信者たちと食卓を囲むことを選んだ。かれは現実のこの惨たらしい生を往くわたしたちを祝福するために自らの血(ぶどう酒)を分け与えた。「渇く者があれば私のもとに来て飲むがよい(ヨハネ七-三七)」。天国は遠くおよばない地にあるのではない、「実にあなたたちの中にある(ルカ一七-二一)」。もちろんそこには地獄もともにある。かれがひとの子としてあらわれた(とされる)のは、おそらくそのためだった。この世の地獄を、もろともに抱こうとするために。神が人間の歴史の中に唯一、介入の跡を残したとされることにもし意味があるとしたら、ただこの点にしかあるまい。底無しの闇夜に包み込まれているひとは、漆黒に染まって誰に気づかれることもなく、もはや存在しないにひとしい。しかし世の中には、たったひとすじの明かりに呼応して自ら光り出す生きものや鉱石があるのと同様、誰しも自らの中に幽かに雪洞のような淡い光源を秘めもっているのだ。
あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を上らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。
(マタイ五ー四三)
十代のころ、新約聖書のよく知られたこの箇所を読んで、筆者は反発どころか憤激にかられさえした。ありえないほど理不尽な要求だと思ったからだ。そんなことができるものなら、世の中にはとうに天国が実現していただろう。そもそも「自分を愛してくれる人を愛」すという以上の報い(幸福)があるだろうか。この書の作者はばかじゃないのか、と。
歳を経たいまは、すこし考えが変わってきた。とうていありえないからこそ、新約の作者はイエスの口からそう語らせたのだろう。愛はひとに、それほどまで理不尽なおこないを進んでさせる。ひとがひとであるゆえんは、すべて愛から出来する。ひとの世のくるしみもよろこびも、おおもとはただひとつ、愛にある。わたしたち多くの者は、愛ゆえに昏き地の底を這いずりながらいつまでもさまよい続ける。しかし愛ゆえにひとは天にも届く高みへと赴く。これが、ひとというものである。
一方で筆者は、愛から離脱せよと説くあらゆる考え方を(愛というありかたは、同じものとは思えないほど異なるが)認めない。なぜって、どこを見回しても、愛に生きたくて生きたくて、でも生きとおすことが出来なくて悶え死に、さまよい続ける亡者ばかりではないか。そんな者たちによってじっさいこの世は、わたしたちの歴史は充ちているではないか。「歴史の魂に推参する」そう言ったのは小林秀雄だった。このひとの思いを私自身のことばに翻訳すれば、聴きえない亡霊の声に、誰にも届かないその声に、ひたすら耳を傾けるということだ。
このひとはこうも言った、「歴史は人類の巨大な恨みに似ている」。憎み合ってはいけない。憎しみからは何も生まれないから。あとに残るのは凍えるばかりの荒廃だけだから。憎しみに打ち克つのは愛だ――間違っている。愛は憎しみの代用物でも対立物でもけっしてない。勝つも負けるもない。ひとが憎しみを抱くのは愛すればこそ、愛したいからこそなのだ。憎しみもまた、愛の媚態のひとつにほかならない。憎しみに由来するくるしみもかなしみも、その本性が愛であるゆえに絶えることがないのだ。愛に生き愛に死ぬ。愛はひとのひとであるゆえんであり、わたしたちの本性である。わたしたちは愛によって求め合い、よろこびかなしみを分かち合い、憎しみ合い傷つけ合い、ときに弑し合いまた和解して死を迎える。そんなやくたいもないことをいつまでもくり返してはじめてこの世がある。人殺しや盗みや偽りをなすひとたちはいつまでも後を絶たない。かれらのおこないは、愛に躓いた者が上げる声である。ほんとうは愛したくて愛したくてたまらなかったのについに愛せなかったひとが、自らの存在を挙げて発する声なき声なのである。それを悪と呼ぶならば、愛は諸悪の源泉である。なぜならわたしたちは空気や水と同様、愛からできている生きものだから。まことに「愛」において「貧しき者はさいわいなるかな」。
六.リバイアサン
アイヒマンはイヤゴーでもマクベスでもなかった。しかも〈悪人になってみせよう〉というリチャード三世の決心ほど彼に無縁なものはなかったろう。自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。勿論彼は自分がその後釜になるために上役を暗殺することなどは決してしなかったろう。俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。[中略]完全な無思想性――これは愚かさとは同じではない――、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。
(傍点原文、ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』大久保和郎訳、二二一頁、みすず書房。ちなみにイヤゴーもマクベスもリチャード三世もシェイクスピアの劇中人物)
端緒はたとえ「よかれ」との思いであったとしても、ささやかな友愛ですらあったとしても、それらがいくつも引き合い、ねじれ、無数に撚り合わさったとき、あれよという間に暴走をはじめ、誰にも止められない、いやそれどころか暴走とも気づかれないままリバイアサン(一七世紀英国の哲学者、トマス・ホッブスが名付けた国家という怪物。ここでは集団的意志の表象という意)と化してしまうことが、えてしてある。これはときに憎しみの連鎖によるそれよりもおそろしく、おぞましい悪の形態となりうる。なぜなら、それはむしろ悪ですらないからである。じっさい、今日なお絶えることのないジェノサイドをもたらしているのは、ひとりの独裁者の恣意に止まらず、その独裁を支える(たとえば官僚制という)国家システム、あるいは翼賛的な「空気」にほかならない。アイヒマンのような人物は、それ自体としてはただの小心な能吏でしかない。ただ上司の命にしたがい、自身の役割をひたすら忠実に実行することに腐心した歯車ないし細胞のひとつにすぎない(事実、アイヒマンは公判でそう陳述し、無実を主張した)。その多くは家庭をもち、よき伴侶であり親であり、近所付き合いも愛想よく、たいていは善意にあふれている。われわれが裁かなくてはならないのは、こんな連中なのか。そうでなければ誰なのか。「誰」と言えるような者がそもそもいるのか。ハンナ・アーレントがアイヒマン裁判の取材をつうじて直面したのは、このような問題だった。
彼女は裁判官に仮託してこう答える。
君が大量殺戮組織の従順な道具となったのはひとえに君の逆境のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量殺戮の政策を実行し、それ故積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては服従と支持とは同じものなのだ。そしてまさに、ユダヤ民族および他のいくつかの国の国民たちとともにこの地球上に生きることを拒む――あたかも君と君の上官がこの世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように――政治を君が指示し実行したからこそ、何人からも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されなければならぬ理由、しかもその唯一の理由である。
(アーレント同前書、二一四-二一五頁)
また、こうも語る。
正義は単におこなわれねばならないだけでなく、目に見える形でおこなわれねばならぬ。
(同前書、二一四頁)
筆者も基本的に同意する。しかしこれは、世界が注視したホロコーストという甚大かつ特殊なケースだったから可能になった発言だとしたらどうだろう。国家システム、あるいは翼賛的な「空気」と属人性や家族愛とは、共犯か互いに扇動しあいながらも、同時に排他的な、すれちがいの関係にある。たとえ両者が同じ方向を向いているようにみえるときでも、この関係はかわらない。吉本隆明はこの関係を「逆立」と呼んだが、肝心な点は、同時に並び立たないはずのもの同士がかかわりあわずにおれないジレンマにある。つまり誰を、何を裁くのか誰にもわからないゆえに裁く水準にも至れないという点にある。のみならず今日の国家システムは第二次世界大戦とそれに続く冷戦の時代よりはるかに複雑化し、グローバルに、ボーダーレスにからみあっており、もはやリバイアサンの本体を見極めるのも、ましてその原因と責任とを属人性において問い、断罪するのも困難な状況が世界のいたるところで露出している。激化する宗教・民族間紛争と終わりのない代理戦争、民主主義陣営内での分断、ソフィスティケートされた官僚制と警察機構を後ろ盾にした覇権主義の台頭、いつ隣人がテロリストになってもおかしくない無差別テロの拡散、SNSと生成AIが先導するIT革命の加速化、資本主義経済の行きづまり(成長という名の幻想の崩壊)、地球温暖化と気候変動の深刻化――こうした日々語られる事象は、いずれも互いに無縁ではない。それぞれに論じられることが徒労だと主張するつもりはないが、問題のキモはおそらくまったく別のところに、すなわち人間という存在の依り代である共同性のありかたにしかないと思われる。
その意味で日本のばあい、翼賛的「空気」の世界はまったく独自で異質なもので、戦中から敗戦を経て七十五年の後もおどろくほど変わっていない。日本社会に支配的なこの「空気」に着目したひともいるが、これをよくもわるくも世界に類をみない自生的・土着的社会主義と呼んでおきたい。社会主義とはかんたんに言えば、貧富や社会的差別を排して偏った富や社会的利益を公正・平等に再分配するしくみのことだが、再配分を実行しようとすると、中央への権力集中つまり独裁とそれを支える堅固な官僚システム・暴力システムが不可抗力的に生じてしまう。これに対して、あえて直接的に権力を行使しない聖なる存在(天皇)を「空気」の発生・濾過装置として祀ってきた日本の共同体は、それゆえ阪神・淡路大震災や東日本大震災のような危機存亡のさいには世界が驚嘆する強固な互助的紐帯を発現してみせた。が一方で、それに反する者を徹底して排除する(村八分)しくみを、裏の顔として維持してきた。そのことは先年の某大手芸能事務所の性加害問題や、学校と呼ばれる特権的かつ閉鎖的な空間がもたらす「いじめ」問題をはじめ、いまなおさまざまな組織集団で日々飽きることなくくり返されるハラスメントの数々が示している。このような共同体を革命によらず自生的に、国のすみずみにまで浸みとおらせてきたのはおそらく日本のほかに類例がなく、表裏ともども、その特性はもっと注目されていい。
さて愛とリバイアサンの関係の話に戻ると、ここまで述べてきたような状況下では、家族愛、同胞愛、祖国愛といったもろもろの(ありふれた)愛の形態はひとそれぞれに宿りつつ、それはそれで結構なことだが、リバイアサンの養分となって吸い上げられることになる。もちろん抵抗の養分ともなりうるだろう。だがそれも同じものの両面にすぎない。愛は物語と相性がいい。リバイアサンもまた物語を床苗にして成長する。かくして愛は、リバイアサンの前に無力化されざるをえないだろう。
これに抗う方途はあるだろうか。間違っても愛を離脱し、ハシゴを下りることではない。ハシゴの尽きるところを、どこまでも見届けなくてはならない。
たとえば、愛をそのもっとも純粋な形態にまで蒸留させながら、それと「心中」する途はどうだろうか。アウシュビッツにおいてその名を刻まれるマキシミリアン・コルベ神父や哲学者エーディト・シュタインのような「犠牲」と「殉教」の愛がその例である。しかしそれは、巨悪に対する属人的で英雄的で護教的なふるまいという、明確な構図をもった(こう言えば不適切との誹りを受けるだろうが、わかりやすい)物語を立ち上げ、あるいは信仰と一体化し、アイコンとして拡散するほかないだろう。
それとは逆向きの途があるかもしれない。愛も善悪も正義も偽りも何もかも節操なく呑み込んで、その向こう側へ突き抜けるという途だ。しかも今日の困難な状況下で拓かれるべき途は、物語によって回収される次元、誰もがたやすく模倣しうるような次元にあってはならない。どこまでも個人的で、誰にも共有されることのない次元、しかし同時に誰もがそれを得る権利をもつ次元――たとえばNFTのように――それがリバイアサンを突き抜けるささやかな可能性の窓でありうるかもしれない。だとしたらそれは、どん窓だろうか?
(第04回 了)
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