日本文学の古典中の古典、小説文学の不動の古典は紫式部の『源氏物語』。現在に至るまで欧米人による各種英訳が出版されているが、世界初の英訳は明治15年(1882年)刊の日本人・末松謙澄の手によるもの。欧米文化が怒濤のように流入していた時代に末松はどのような翻訳を行ったのか。気鋭の英文学者・星隆弘が、末松版『源氏物語』英訳の戻し訳によって当時の文化状況と日本文学と英語文化の差異に迫る!
by 金魚屋編集部
箒木
では誰を選べばいい。かくも人品取り取りなれば選るに選られぬ品定め、万人の挙って籤を引くが如し。それでもまだ悉皆望みに適った女を探ね歩くのが吾等というものか。血眼になって探すのか、美の権化、吉祥天女*1は何処にありや。嗚呼、其は妄執也、絵空事也。
さても哀愁たっぷりに締めくくったものです。聞き入っていた者たちは頭中将の切り口上に一斉に吹き出してしまいました。
「さあ、式部殿、君の番だ。ひとつ頼むよ」勢いづいた頭中将がそう言って顔を向けますと、
「憚りながらお気に召されるような話はとても」
「あるんだろ、勿体つけずに、さあ」
式部丞はしばし口を噤んで考えた後、徐に語り出しました。
まだ文章道の学生だった頃です、類稀なる才知に恵まれた女がおりまして、まこと如才のない、それこそ左馬頭殿の言うところの、公事私事の別なく話し合える女房そのもの、迸る知才弁才には並の学者じゃ束になっても敵わない、たちまち舌を巻くばかりと、そんな女の話をいたしましょう。
その女というのは、師と仰いでおりました博士の娘なのですが、ひょんなことから深い仲となり、師の知るところともなり、あるとき片手に盃を掲げて言うのです、「我が両途を歌うを聴け*2」と。
両途と言いながらなんとも一途な申し出に、学問にもいっそう身が入りました、かの娘に見合うだけの男にならねばならないのですから。しかしながら、本心を申せば、ことさら好いていたわけでもなかったのです、女の方でも人身御供でも見るような気の毒そうな顔をしておりましたよ。公事にも私事の始末でも事あるごとに女の言う通りにしました、まるで舟頭と舟子です。文を寄越せば、なよやかな仮名書き*3は一行とてなく、その真名のまこと雄々しいこと。我が身の世話焼きはまこと甲斐甲斐しいらしく、ならばと頻りに通いましたし、唐詩の作法などは女を師にして習ったのです。そうした恩を忘れたこともなければ、妻女は無知でよいなどと思ったためしもなかった、しかしそれでも、それが後生だと念じてみても、かような女を認めることはついぞ出来ませなんだ。諸兄のように尊き御仁の妻ともなれば尚のこと無用の長物でございましょうね。才能より愛嬌、真でございますな、左馬頭殿。
「面白い女もいたものだ」と唸るは頭中将、先を続けろと催促顔。
以心伝心の式部もまた、しかめ面を返して見せて、続けます。
久しく間を空けてから顔を出してみたときのことです――皆同じ手でございますね――平生とは違って余所余所しいじゃありませんか、衝立越しにしか話そうとしないのです。無沙汰がよほど堪えたと見える、別れを切り出す良い折だと思いました。しかし、世事に長じた女は悧巧です、かっとなるわけでもなければ黙って泣くのでもない、気詰まりを知らぬ性分が左馬頭殿のお気に召すやもしれませんな。か細くも明瞭な声ではっきり言いました、「吐気がおさまらぬので、面と向かうことはなりません。言いたいことがあるればおっしゃって」どうやら嘘でもないらしい。憚りもなく胸が悪いと断られてしまっては返す言葉もない。「よそう」とだけ言い残して踵を返したところ、幾分痞えが下りたのか、声音も高く、「またすぐにでも、体も良くなりましょうから」と言うので、聞こえぬ振りをするのも辞儀がわるい、かといってこんな身の置き所もないところで足を止めたくもないので、じろりと目だけ遣って言ったのです、
まいりしかどよりいぬあしを ふたたびとめるなぐさめやあらむ
その末の音の端を継いで返した歌の鮮やかさはまさに才女の機転の証でございましたよ、
よごとまみえしあいだなれば はたとはじらうねざめやあらむ
「またまた」と口々に囃し立てる源氏らの目を丸くしておいでなのは、本心からか戯れか。「そんな女がいるものか。鬼が化けていたのじゃないか、おお恐い」と爪弾きして忌々しげに見遣るや、「おぞましいのはたくさんだ――もっと面白いのを聞かせてくれよ」
式部丞は落ちつき払って「これきりですよ」と言い、それきり黙ってしまわれました。
【註】
*1 インド神話に登場する女神。
*2 先述の唐詩人・白楽天からの引用。元の詩には次のようにある、「あるとき主人は良き媒らをまねき 四座をかこんで会させると 酒を置いて玉のごとき壺を満たし 且くは飲む勿れ 我が両途を歌うを聴けという いわく富家の女は嫁し易いが 早く嫁になると其夫を軽んじる 貧家の女は嫁し難いが 晚く嫁になると其姑への孝となる。」
*3 女性の間で広く用いられた柔らかい筆致の大和文字。
(第14回 了)
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