ボストン美術館 日本美術の至宝
会期=2012/03/20~06/10
以後、名古屋ボストン美術館、九州国立博物館、大阪市立美術館を巡回(2012/06/23~2013/6/16)
入館料=1500円(一般) カタログ=2000円
評価=総評・80点 展示方法・80点 カタログ・80点
少し乱暴な言い方かもしれないが、社会が安定しているときには美術の名品は動かない。あるべき場所に収まってじっとしている。人間の寿命は長くてもたかだか百年ほどである。この期間に社会が安定していれば、どんなにお金持ちになってもたいしたコレクションは作れない。モノが市場に出にくいのはもちろん、もし出たとしても、誰もが認める名品は恐ろしいほどの金額で高止まりしているからだ。その反対に社会動乱期にお金を持っていれば、めまいがするほど素晴らしいコレクションを築くことができる。
日本の近代で大きな動乱期は2回ある。明治維新期と第二次世界大戦終戦時である。いずれの時期にも美術品は大きく動いたが、維新期の方が遙かに凄まじかった。藩と士族の解体によって、徳川260年間にほどんど動いていなかった美術品が一気に市場に溢れたのだ。それに加えて明治政府の天皇中心主義と西欧型国家樹立の方針が、廃仏毀釈と欧化主義の嵐を引き起こした。千年以上大切に守り続けられた仏像や経典は価値のないものとされ、江戸の人々の心を捉え続けた浮世絵は恥ずべき紙屑になった。この時期に、日本美術を愛する2人のアメリカ人が日本にいた。フェノロサとビゲローである。ボストン美術館の日本美術コレクションはこの2人の蒐集品が中核になっている。
アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(1858年[安政5年]~1908[明治41年])は、ボストンに近い港町セーラムで生まれ、ハーバード大学で政治経済を修めた後に、ボストン美術館付属美術学校でデッサンや油彩画を学んだ。大森貝塚発見で有名なエドワード・S・モースの推薦で明治11年(1878年)に来日し、東京大学の哲学教授に就任した。しかしフェノロサの興味は哲学を教えることよりも日本美術の探究にあった。それは次第に周囲の知るところとなり、フェノロサは草創期の日本美術界のリーダー的存在になってゆく。日本語が堪能でなかったフェノロサの右腕になったのは教え子の岡倉天心であり、彼とともに東京美術学校(現・東京芸術大学)の設立に尽力した。明治17年(1884年)に文部省の調査で法隆寺を訪れたフェノロサと天心が、約800年間秘仏とされてきた法隆寺夢殿の救世観音像を開帳させた史実は有名である。
フェノロサの日本美術愛好は筋金入りのもので、江戸狩野派の狩野永悳立信(えいとくたちのぶ)に狩野派の鑑定法を学び、住吉広賢(ひろかた)に大和絵と仏画の鑑定法を学んでいる。永悳立信からは、狩野永探理信(えいたんまさのぶ)を名乗ることを許されている。鑑画会という美術団体を組織し、狩野派、住吉派、円山四条派、土佐派といった流派を超えた画家たちを集めた。狩野芳崖や橋本雅邦らは、フェノロサが世に送り出した画家だと言ってよい。フェノロサはまた、岡倉天心の紹介で知り合った滋賀園城寺の桜井敬徳より受戒して仏門に帰依している(この時ビゲローも仏教徒になった)。フェノロサは明治41年(1908年)にロンドンで客死し、遺体はロンドンに埋葬されたが、翌42(09年)年に生前の遺志で園城寺に改葬された。フェノロサの墓は今も園城寺にある。
ウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850年[嘉永3年]~1926[大正15年])もボストン出身である。ハーバード医学校を卒業後、狂犬病のワクチン発明などで有名なパスツールの元で細菌学を学ぶためにヨーロッパに渡った。帰国してマサチューセッツ総合病院で外科医として働いたが、すぐに辞職してしまった。フェノロサの家も裕福だったが、ビゲローの家は桁外れの富豪だった。働く必要などなかったのである。明治14年(1881年)に一時帰国していたモースの日本講座をボストンで聴講して心動かされた彼は、翌15年(82年)に来日した。東京でフェノロサと知り合い22年(89年)まで日本に滞在した。ビゲローは当初刀剣を蒐集をしていたが、フェノロサの手引きで次第に日本画や仏教美術に目覚めていく。肉筆を含む、世界最高峰と言ってよいボストン美術館の浮世絵コレクションはビゲローの蒐集品が中心になっている。
フェノロサやビゲローが活躍した時期は、長い目で見れば大航海時代の最後を締めくくるエクゾティズム(オリエンタリズムを含む)の時代だった。ゴーギャンがタヒチに渡ったのは1891年(明治24年)である。詩集『碑』で知られるヴィクトル・セガレンが初めて中国に渡航したのは1908年(明治41年)だった。スヴェン・ヘディンの中国楼蘭遺跡の発見は1901年(34年)のことである。世界は西欧列強による帝国主義植民地時代に突入していくが、その一方で多くの欧米の知識人たちが、今まで触れたことのない異文化に直に接する機会を得たのである。フェノロサとビゲローは、アメリカ人として初めて日本美術を〝発見〟した人たちだと言ってよい。
なぜヨーロッパに面した西海岸出身のフェノロサとビゲローが日本美術に魅了されたのかについては、カタログ解説で東京国立博物館絵画・彫刻室長の田沢裕賀氏がその理由を書いておられる。ボストンはイギリスからの最初の移民が到着したプリマスからから、約60キロ離れたアメリカで最も古い町の一つである。アメリカ独立戦争の端緒となった、1773年(明和2年)の『ボストン茶会事件』が起こった地としても有名である。イギリスの植民地政策に反発した急進派が、東インド会社の積荷の紅茶をボストン湾に投棄したのである。アメリカ人はそれまでイギリスに倣って紅茶を好んでいたが、独立戦争頃からそれがコーヒーに変わったと言われる。ボストンは開明的な地であり、また当時の世界貿易の拠点の一つだった。
フェノロサの出身地セーラムは古くから捕鯨と貿易で栄えていた。日本とのつながりは江戸時代にまで遡る。周知のように江戸幕府は鎖国政策を敷き、西欧との窓口は長崎出島でのオランダとの交易に厳しく限定していた。しかしフランス革命時代にオランダは船を派遣することが困難になった。寛政9年(1798年)から文化6年(1809年)にかけては、幕府の黙認の元に、セーラムの米国船がオランダ国旗を掲げて出島に入港していた。当時は博物学や民俗学が盛んで、アメリカ船によってもたらされた日本の文物が今もボストンの博物館に残されている。フェノロサにとって日本は意外に近しい国だったのである。またビゲローが細菌学の勉強のために滞在したパリは、ヨーロッパにおけるジャポニズムの拠点だった。ただほとんどのヨーロッパ人が輸入によって浮世絵などを手に入れていたのに対し、ビゲローは実際に来日してそれらをコレクションしたのである。
今回の展覧会『ボストン美術館 日本美術の至宝』は、タイトル通り、ボストン美術館所蔵の日本美術の粋が集められている。驚くべき質の高さである。日本を含め、世界中の美術館・コレクターが、どんなにお金を積んでももはやこれだけのコレクションを集めるのは不可能である。展覧会は来年6月まで日本各地を巡回するが、見逃された方でも、カタログを眺めるだけでその素晴らしさを堪能することができる。また今回はあえて浮世絵の展示が見送られたが、これについては最近では平成18年(2006年)に江戸東京博物館で開催された『ボストン美術館蔵 肉筆浮世絵展 江戸の誘惑』がある。この展覧会のカタログを入手されれば、ビゲローの浮世絵を見る目がいかに優れていたのかがわかるだろう。
『法華堂根本曼荼羅図』 縦107.1×横143.5センチ 奈良時代 8世紀 ビゲローコレクション
展覧会は『プロローグ コレクションのはじまり』『第一章 仏のかたち 神のすがた』『第二章 海を渡った二大絵巻』『第三章-中世水墨画と初期狩野派』『第四章 華ひらく近代絵画』『第五章 鬼才 曽我蕭白』『第六章 アメリカ人を魅了した日本のわざ-刀剣と染色』から構成されるが、その中のいくつかを紹介しておく。
『法華堂根本曼荼羅図』は東大寺法華堂(三月堂)に伝わっていた奈良時代の曼荼羅仏画である。諸尊や衆生に囲まれた釈迦が法華経を説く様子が表されている。奈良仏教(密教)絵画の傑作であり、日本に残っていれば間違いなく国宝指定されるだろう。その他にもコレクションには平安・鎌倉期の仏画・仏像の優品が含まれている。フェノロサ・ビゲローはどのようにしてこれらのコレクションを入手したのだろうか。一部を除いて入手経路はほとんどわかっていない。今と比べれば入手しやすかったとはいえ、これだけの『数』の仏教美術の傑作を集めるのは尋常ではない。彼らの審美眼が優れていたことは言うまでもないが、コレクションのためのネットワークがあったのも確かである。
『平治物語絵巻』 縦41.3×横700.3センチ 鎌倉時代 13世紀後半 フェノロサ・ウェルドコレクション
『平治物語絵巻』は平治元年(1159年)に起きた藤原通憲(みちのり、信西)と藤原信頼(のぶより)・源義朝(よしとも)の争乱を描いた合戦絵巻の傑作である。三河国西端の本田家に伝わっていたが、フェノロサは明治15年(1882年)にこれを見て、2年後の17年(84年)に入手したことがわかっている。フェノロサ自身が『いろいろな困難を克服してこれを入手したことは、そのまま一篇の小説になるだろう』(『東亜美術史綱』)と書いているので、多くの人間が介入し、奇々怪々とも言えるような出来事を経て彼の所有になったことがうかがえる。古美術の世界で名品と呼ばれる文物が動くときには、しばしばそのような事態が起こるのである。
『雲龍図』 曽我蕭白筆 縦165.6×横135.5センチ 江戸時代 宝暦13年(1763年) ビゲローコレクション
ボストン美術館は、世界最大かつ最高の曽我蕭白のコレクションで知られている。『雲龍図』は蕭白作品の中でも傑作中の傑作の一つであり、今回の展覧会のためにボストンで修復された。フェノロサが入手したとき(後にビゲローの手に渡って、ビゲローコレクションとしてボストンに収蔵された)にはすでにマクリ(表装されていない状態)だったようだ。それを本来の襖絵に近い形に戻したのである。オリジナルは四角い日本間の四囲を、龍が描かれた8枚の襖が取り巻いていたのである。これだけ迫力ある絵であるにも関わらず、どの寺に伝来したのかはわかっていない。一昔前は幕末京都画壇といえば円山四条派の祖・応挙を代表とすると決まっていたが、近年では蕭白や伊藤若冲がそれに迫る勢いである。彼らの再評価のきっかけになったのが、ボストン美術館のコレクションである。
蕭白(享保15年[1730年]~天明元年[1781年])は極めて我の強い絵師だった。『画を望まば我に乞うべし、絵図を求めんとならば円山主水(応挙)よかるべし』と言ったのだという。現代語に訳せば、イラストが欲しいなら応挙に、芸術的絵画が欲しいなら自分に頼めばよかろうといったくらいの意味である。不遜までの自信に満ちた言葉である。ただ蕭白の経歴はよくわかっていない。晩年には京都画壇でそれなりの評価を得たが、応挙の名声には適うべくもなかった。フェノロサ・ビゲローの時代にも群小画家の一人という扱いだったが、それを彼らは積極的に蒐集したのである。
蕭白の絵には、維新後に『近代的自我意識』と呼ばれるようになる強い個性が認められる。幕末にすでに蕭白のような強い自我意識が芽生えていたからこそ、日本は比較的スムーズに欧化主義を受け入れられたのである。またフェノロサやビゲローは、自分たちの心性に近しい日本の画家の存在に敏感に気づいた。蕭白に比べれば、応挙はあくまで伝統的な日本画家だった。また強い個性を持つ日本の画家を好む伝統はアメリカで脈々と受け継がれている。皇室所蔵の『動植綵絵』(どうしょくさいえ)を除けば、世界最大かつ最良の若冲コレクションはロサンゼルス郡美術館にある。ジョー・プライス氏が蒐集したコレクションである。氏のコレクションは平成18年(2006年)に東京国立博物館で『プライスコレクション「若冲と江戸絵画」展』として公開された。僕はこの展覧会を見に行って、会場に詰めかけた群衆を満足そうに眺めるプライス氏の姿を見かけた。
個々の素晴らしい美術品についてはもちろん、ボストン美術館収蔵作品はコレクション自体についても様々なことを考えさせる。ほんの一握りの例外を除いて世界中の国々は動乱期を経験している。美術品どころではないという状況で、多くの優品が海外流出してしまう時期である。日本では明治10年から20年代がそのような時期だった。しかしそれは、ある国民が自国文化の素晴らしさに目覚めるきっかけにもなる。明治の動乱期にフェノロサやビゲローが美術品の蒐集を行ったことは日本にとって幸運だった。彼らは投機目的ではなく、日本美術を系統的に理解しようという目的で美術品を集めた。それらはほとんど散佚せずに、ボストン美術館にまとめて収蔵されたのである。
またフェノロサ・ビゲローの時代は、より大きな文化的構図で捉えてみる必要があると思う。周知のようにフェノロサの通訳をつとめた岡倉天心は日本美術界の巨星である。天心は文筆家でもあったが、その影響は残された文章だけからでは測れない。天心に見出された明治彫刻界の巨星・平櫛田中は数体の天心像(岡倉覚三像)を残しているが、その姿は一種異様な迫力に満ちている。天心は自ら設立した日本美術学校を追われるなど様々なスキャンダルでも有名だが、その中に男爵・九鬼隆一の妻との関係がある。彼らの子供が哲学者の九鬼周造であり、周造の美術に対する嗜好は天心の影響だと言われる。
『岡倉覚三像』 平櫛田中作 高さ112.0センチ
美術品売買(移動)のネットワークについても考えてみる必要があるだろう。実際にやってみればわかることだが、美術品蒐集は一筋縄ではいかない。ある場所(人)から場所(人)へ美術品を移すのは、恐ろしく大変なことなのだ。億単位のお金が動くような美術品の移動であろうと、現代でもその詳細は不明である場合が多い。フェノロサ・ビゲローのコレクション蒐集の詳細がよくわからないのは当然のことである。言いたくても言えない、書き残せない事柄がたくさんあったことは想像にかたくない。多少のことに目をつむらなければ、優れた美術品は蒐集できないというのが現実である。
明治30年代になると、益田鈍翁を始めとする日本人コレクターが古美術業界に参入してくる。様々な古美術商の活動も活発になるわけだが、彼らに美術品を紹介・売却したのは美術商とは限らない。フェノロサは蜷川式胤(にながわのりたね)や柏木貨一郎らと親交があったことが知られている。彼らは東京国立博物館初代館長となる町田正成とともに、明治5年(1872年)の明治政府による第一回正倉院調査(壬申検査)に参加している。この時期に、蜷川らの手によって正倉院宝物のいくつかが民間に流出したことはほぼ確実である。それは今でも一種の禁忌として触れられないが、もう彼らの時代から百年以上が経った。鈍翁らを含め、美術品の収集過程についても研究が進んでもいい頃だと思うのである。
なおこれは余談だが、ボストン美術館は世界で一番情報公開が進んだ美術館としても有名である。収蔵品の多くをHPで手軽に見ることができる。浮世絵などで調べ物があるときに、一番参照しやすいのがボストン美術館HPだと思う。ボストンに比べれば日本の美術館の情報公開は大きく立ち遅れている。情報を囲い込まずに積極的に公開し、専門家・民間人を問わずに様々な知恵やアイディアを結集するのが、これからの学問研究の一つの姿だろう。日本のフラグシップ美術館である東京国立博物館には、その先陣を切って、美術品の情報公開に積極的に取り組んでいただきたいと思うのである。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■