王国には王様がいて
高い塔の上から僕らを見おろしている
楽園には人々がいて
自分が楽園の一人であると信じようとし
楽園にいることを心から楽しもうとしている
ハワイはいまだに楽園で
アメリカ本土はもちろん
世界中から観光客がやってくる
パリやフィレンツェはオーバーツーリズムで
レストランや美術館に入るだけで長蛇の列だ
今や色あせかけた楽園の方が静かかもしれない
三泊したハレクラニホテルは快適で
ベッドに横になって鮎川信夫詩集を読んだ
「さあゆこう
小さいマリよ
おまえと歩むこの道は
とおくまで草木や花のやさしい言葉で
ぼくたちに語りかけてくるよ
どんなに暗い日がやってきても
太陽の涙から生まれてきたぼくたちの
どこまでもつづく愛の歌で
この道を歩いてゆこう」
暗く陰鬱な橋上の人が
思いがけず楽園の
愛の歌を歌っていた
ハワイで持って帰りたいと思ったのは青い空だけで
心を動かされたのはイオラニ宮殿だけだった
宮殿とは名ばかりの
狭くてあまり質のよくないコンクリート造りだ
ここでハワイ王朝最後のリリウオカラニ女王が幽閉され
自分の生涯とハワイの歴史が詰まったクイーンズ・キルトを作った
知的で優美な人だった
受付で借りたイヤホンからは
彼女が作詞作曲した Aloha Ola が流れていた
アロハの女性の歌声は
小鳥のさえずりのように聞こえることがある
楽園の葬送歌のように響くことがある
イオラニ宮殿では亡霊たちが歩き回っていた
バスがつかまらなかったので
ホテルまでサウス・キング・ストリートを歩いて帰った
高層ホテルやマンションが建ち並ぶが
道路が広いので
東京より空が広く感じられる
低層の古ぼけたショップが並ぶ一角が続き
暗い窓ガラスの内側に赤いネオンの Tattoo の文字が光っていた
「あんた 腕にハートの Tattoo 彫ってよ
真ん中にわたしの名前いれてさ」
「そんな恥ずかしいこと できるかよ」
20代くらいの男の子と女の子が
ウィンドウに張られた Tattoo のサンプルを見ながら話していた
楽園の舗道脇の芝生はゴミでいっぱい
タバコの吸い殻やファストフードの紙コップが転がっている
ふと気になって筒になった紙を拾いあげると
中に20ドル紙幣が入っていた
コカインを鼻から吸ったあとに
無造作に棄ててしまったのだろう
20ドルはロイヤルハワイアンセンターのフードコートで
ばかでかいハンバーガーになってあっさり消えた
あまり人気のない夜道ですれちがった巨体の黒人男性は
僕の目をチラリと見て ”Good evening Sir” と丁寧に挨拶した
”Good evening” と返したが
小柄で丸刈りの東洋人が怖かったのかもしれない
一瞬身構えたのは僕の方だったのに
姉は僕よりずっと親孝行で
亡くなった母親を何度もハワイに連れて行った
「ハワイはどうだった?
もう二度と行きたくない?」
ハワイから帰ると真っ先に姉が聞いた
姉弟は残酷だ
すべて見透かされている
楽園にいながら僕は
北向きの窓から光が差し込む
仕事部屋のことばかり考えていた
仕事は遅々として進まないから
部屋に閉じ込められている
終わりはあるのだろうか
終着点はあるのか
母親は亡くなった兄からプレゼントされたオルゴールを大事にしていた
昭和二十年代にはそれなりに高価で
今ではほとんど価値のない木製品
蓋に南国の
六月のハワイで咲きほこるような
鮮やかな花々が描かれている
昔のオルゴールの曲は
なぜかエリーゼのためにばかりだった
母親の遺品のオルゴールの曲もエリーゼのために
ピアノ初心者用の練習曲
ベートーヴェンの代表曲の一つだが
いまだに誰かわからないエリーゼのための曲
誰かわからない女性のための曲
ネジを巻く
プラスチックに覆われた歯車が動き出す
陳腐に感じるほど聞き慣れたメロディーが流れ出す
でも金属板を弾く爪の動きが少しずつゆっくりになる
もうすぐ終わる
ああ もうすぐ終わってしまう
「ここはホントに快適ね
いろんな細かいサービスがあるじゃない」
「でも全部フリーってわけじゃないのよ」
ハレクラニのダイニングで
中年の白人女性が話していた
「あなたは日本人ね
すぐに戻ってきなさい
ここは世界で一番素晴らしい楽園なんだから」
チェックアウトする時
髪を後ろでひっつめにしたフロントの女性が
にこりともせずに言った
僕は楽園に行ったことがある
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