「風の強い土地に住んではいけない」
僕は笑った
まだ小学校の低学年だった
だっておじいちゃんは生まれてからずっと
海の近くの岩壁の家に住んでるじゃない
祖父は揺るぎない家の主で
家そのものだと思っていた
親に連れられときおり祖父の家を訪ねるだけだったが
風の怖さは身に染みて知っていたので
よけいに祖父の奇妙な言葉が記憶に残った
今はもうない八畳二間の古くて広い部屋だった
片隅に木製フレームの大きなブラウン管テレビがあって
反対側の隅に仏壇があった
隣の八畳のテーブルの前に座って
祖母が内職仕事をしていた
土間に続くガラス戸から
夕方の光が差し込んでいた
僕らはもうすでに一つの世界を共有している
何もかも出尽くしたって感じることがあるだろ
すべて出し尽くした、やり尽くした
もう書くことなんて何もないってね
「余はこの世のすべての本を読んだ」ファウスト博士
「すべての本は書き尽くされた」ボルヘス
どう表現しても同じこと
作家ならだがしかしが訪れるまで
そんな憂鬱な谷間にじっと沈んでいる
「砂漠は美しい」
アラビアのロレンスはそう言った
今のシネコンとは比べものにならない
銀座のテアトル東京の巨大スクリーンで見た
美しい映画の中で
彼は正しい
おびただしく流された血も
切り裂かれた肉も
強烈な太陽に灼かれ砂に戻ってゆく
砂の海は清潔だ
「八日、七夜がその間、
立て続けに吹かせ給えば、
見よ、
人々ことごとく薙ぎたおされて、
まろび伏した椰子の切株のごとくに
地上にころがった
今見ても
かげも形も残ってはおらぬ」
メッカ啓示、全五二節「絶対」
心地よい冷房の風に吹かれながら
ずっと『クルアーン』を読み続けた、夏
世界終末の日には当然風が吹き荒れる
風が恐ろしいのは
物理で空気には質量があると習っていても
手でつかめないからだ
抗うことも 闘うこともできないからだ
すべてを破壊する力があるとわかっていても
いつ どこから襲ってくるのかわからない
パリを案内してくれていた友人は
「墓地は嫌いなんだ、ここで二時間後に」
そう言うとペール・ラシェーズ墓地の正門近くで僕を下ろし
古いルノーで走り去った
オスカー・ワイルドの墓はすぐに見つかったけど
パンフレットを見ながら歩いていたのに
すぐにどこにいるのかわからなくなってしまった
あんなに広い墓地だとは思っていなかった
様々に意匠を凝らした墓が並んでいた
灰色の石の死がどこまでも均等に広がっていた
ヨーロッパに来るたびに古い土地だと思う
墓地には緑が多いが
浸食するような緑ではない
僕が慣れ親しんでいる
すべてを呑み尽くすような緑ではない
だけど空っぽになった詩人の頭には
藁すら詰まっていない
迷子になって歩き回るだけ
母親のお通夜の夜には強風が吹いた
本葬の日は晴れて無風だった
忘れものを取りに家に戻ると
身体にまとわりつく実家の空気が
静まり返って冷たかった
また中身が失われてゆく
父親は健在だがやがて彼も失われる
家だけが最後に残るのか
だけど木と紙と土で出来た家は
簡単に朽ち果ててしまうだろう
僕の実家は高校の正門の前にある
桜の木があって
運がよければ入学式の頃に満開になる
真新しい制服を着た生徒と
着飾った若い父母が桜を背景に写真を撮る
桜の花びらが風に散る
見においでとは言わないよ
君はもうその風景を所有しているんだから
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