高い塔の上から下りてきた
階段は木製でニスが塗ってあり
たったの十三段だった
塔の上には僕の墓がある
あるいは墓を建てるための場所がある
「三十年も彼の時代と調子外れに
死んだ詩の芸術を甦らせようと努めた
昔ながらの〝崇高〟を信じて
最初から間違いだったのだが」
記憶しているというより
どうしようもなく心に刻み込まれている
E.P.の詩行を口ずさみながら一段ずつ下りた
下りてしまえばただの地上で
それなりに長い時間が過ぎただけだった
風景が二重写しに見える
近所のだだっ広い岩瀬スポーツ公園は
昔は昭和電工の社宅で
灰色の三角屋根の平屋の家がどこまでも続いていた
どの家の前にも木が植えられ
緑に包まれた町だった
中央の広場に木造のスーパーマーケットがあり
買い物籠を下げた女の人たちで賑わっていた
少し離れた場所に大きな池と公民館があった
公民館の納屋は中学生たちにとって宝の山だった
古紙回収のための本や古雑誌がうずたかく積まれ
流行の小説本などだけでなく
本屋で買えないエロ雑誌なんかもあったから
運河には鉄橋が架かっていて
錆びた太い鉄骨にぶら下がって遊んだ
廃墟になった防空壕もあった
もう塔の上で眠っている時にしか見えない
歩き回れない土地はたくさんある
塔の上にいるときも
塔から下りてきても
僕はなぜこんなに孤独なのか
答えは簡単だ
差し出される手をことごとく
払いのけてしまったから
君たちは詩とは何かを知らない
詩のような詩を書いているだけだ
詩人になりたいと思ったことは一度もない
一篇でも優れた詩を書きたい
それだけのこと
僕は多かれ少なかれ現世利益と称賛を求める
詩人たちと完全に無縁だ
飼い犬のシロの死は静かだった
人間のように苦しまず
汚穢にまみれることもなく
寒い冬の朝
犬小屋に横たわって死んでいた
できれば犬猫のように死にたい
蠟燭の火が小さくなってフッと消えてしまうように
岩瀬の大町の角には貸本屋があり
斜向かいにたのしり屋という旅館があって
その少し先に歌舞伎座という映画館があった
バスの中には切符切りの車掌さんがいた
街に出ると傷痍軍人の物乞いがいた
富山港線に蒸気機関車が走っていたのも覚えている
戦争など遠い昔の話だと思っていた少年は
いやになるほど戦後の空気を吸っていた
僕の記憶は土地と人々の記憶だ
百年は時間を溯ってゆく
戦中戦後の謎が手に取るようにわかる
母親の三回忌法要があった三月十六日から二週間
富山の実家に帰省した
夕方になると
北の森という
森などないショッピングセンターに買い物に行く
自分のためにはコーヒーを
父親には魚や肉などの食材を買う
父親のために朝昼晩食事を用意し
九十二歲で食べるのが遅い父親に
「ゆっくりどうぞ
食器は片付けておいてください」
そう言い残して
母親が珠算塾のために建てた
別棟の二階建ての家の高い塔の上に戻ってゆく
真正面に北部高校の正門が見える窓辺に座り
ひたすら原稿を書いた
この二年間で僕はなにをしたのか
なにを成し遂げたのか
その答えも簡単だ
なにも
晴れの日があり
曇りの日が続き
ときおり雪が降った
一七〇枚の原稿を書き飛ばした
書き終えた瞬間に徒労の生に戻った
また振り出しの塔の人になった
頑なに塔の上から釣りをする者よ
憎まれ閉じこめられ疑われる者よ
「汝 女の腹から生まれた者」
それが虚ろに人々の耳に響くとき
その声を聞く人は地上にはいない
塔の上にいる
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