「ミシマって
市ヶ谷の自衛隊駐屯地で
天皇陛下バンザイって叫んで
割腹自殺した作家だろ
何をどうやったらミシマ好きになれるんだよ」
「君は観念の美しさを知らない
あの『天人五衰』の
お香から立ち上る芳香のような
恐るべき観念の美が
君には決してわからない」
彼がジョンソンと話している
日本語で
渋谷のTopsという
タバコの煙がもうもうと立ちこめる
時代錯誤の喫茶店で
「花はどこに行った? と聞かれて
ゲイリー・シュナイダーはみんなヤッピーになったと答えた
だけどスピリッツはビートのままだと
どんなに時代が変わっても
人からそのスピリッツまで奪うことはできない」
「唐十郎は
ミシマといっしょに市ヶ谷駐屯地に突入した仲間は
どうなったんだと聞かれて
いまごろ女の実家でヒモになって
喫茶店のマスターでもしてるんじゃねぇのって言ったぜ
日本人のスピリッツなんてそんなもんさ」
三杯目のコーヒーを運んで来たウエイターを見ながら彼が言う
ジョンソンが笑う
彼も笑う
わたしは喫茶店を出て彼と
スペイン坂の階段を上る
着飾った女が多い
若くて美しい
わたしの男を取らないでと思う
こんな男を欲しがる女なんて
いやしないとわかっているのに
だけどわたしには現在しかないから
過去形も未来形も嫌いだから
スペインは彼が一番好きな国だ
何度もいっしょに旅行した
残酷な中世の魔女裁判
わたしは貧しい女
働きに出るにせよ
売春して稼ぐにせよ
幼すぎるか年を取りすぎている
だから悪魔に魂を売る
「自由と目も眩むような富が欲しいか」と問われ
「連れていってください」
跪いて願う
目の前で
火の回りで魔女たちが輪舞を踊っている
あるいはジャマイカ島で
強烈な太陽の光に焼かれ
泣き叫びながら青い浜辺を
銃を構えたスペイン兵たちから逃げまどう
島民すべてが根こそぎ虐殺される
一人残らず殺されてしまう
ロシアのポグロムより
ナチスのホロコーストよりも徹底した
人類史上最大規模の恐るべき大虐殺
スペイン人は正直だと彼は言う
二十世紀の栄光と悲惨は
すべてイザベル女王のスペイン統一から始まった
黄金の王冠をかぶり
緋色のドレスをまとった優美な女から始まったのだと
彼の愛読書はミシュレの『魔女』と
ラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』だ
わたしたちはいつものように
ミッドナイトというレストランで食事する
アリス・B・トクラスのレシピの料理を出してくれる
デザートはハシシ抜きのハシシ・ファッジ
わたしたちはいつも矛盾している
何かが欠けている
何かが足りない
スペイン人や
アメリカ人と同じように
絵に描いたような土曜日の昼下がり
飼い猫のリリが大きくあくびし
遠くの道路を通り過ぎるバイクの音が聞こえる
どこかでスマホの着信音が鳴って
女が話し始める
わたしは言葉が欲しい
あなたと話せる言葉が
四階のベランダから青い空を見ながら
「いい天気だね」と彼が言う
「愛してるよ」とも
ねえわたしと話して
お願いだから
洗濯物が爽やかな風に翻る
Tシャツにプリントされた
〝World〟の文字が揺れる
彼が断崖絶壁の高い岩場に立っている
波が荒く風が強い
男はいつだってほんの少しの喜びと
抱えきれないほどの苦しみをわたしに与える
「落ちるわよ」
やじろべえのように揺れる彼に呼びかける
でも心の中で願っている
落ちてしまえばいい
墜落してしまえばいいんだ
でも底の底まで落ちても
あなたはそう簡単に死ねない
そんな簡単に死は訪れないのよ
何もかも平凡な土曜の昼下がり
彼はベランダの柵に寄りかかり
残酷なほど青い空に飲み込まれそうになりながら
そこにいた
手で触れられる距離にいて
笑った
わたしの男だから
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