年末恒例の「短歌研究年鑑」です。別刷り印刷の自社刊行物広告を除いても246ページの大冊です。そして「総合年鑑歌集「2022年の1万首」」。あいうえお順に歌人が一年間に詠んだ自選五首が掲載されています。壮観です。
ただ歌人名簿はやはり都府県と市区までしか掲載されていません。これでは雑誌や歌集を出して献本しようとしてもできませんよね。余計なことを書きますとお歌の世界は知り合いに聞けばすぐに歌人の住所等がわかってしまうくらい狭いんでしょうか。それだとそもそも歌人名簿を作成すること自体が矛盾じゃなかろか。これはまあホントに他意のない素朴な疑問です。
年々個人情報保護が厳しくなっているのは確かです。そのうち名簿というものがなくなってしまうんじゃなかろか。良い面も不便な面もありますね。
個人情報保護がネット社会になって加速したのは周知のことです。名簿制作側は特定のコミュニティの便宜のために作っただけなのにそれが第三者に渡ると思わぬ使われ方をしてしまう。詐欺や勧誘のための台帳になってしまったりするんですね。名簿は貴重な情報。ネット社会がこれからさらに進展し複雑化するのは間違いありませんのでそれを前提に方策を考えてゆくしかなさそうです。
ネットの使い方は人それぞれで若いから習熟しているとは限りません。ただ多くの人がそろそろネットの基本的な使い方に慣れています。たいていの人がどーでもいいメアドの一つや二つ持っているはずです。名簿の代わりに捨てメアドを掲載して連絡ツールとするようになるかもしれませんね。
もち名簿にメアドを掲載すればすぐに一日100通くらいのジャンクメールが届くようになります。しかし不特定多数向けの連絡用メアドとしてしか使っていなければ必然的にそれはジャンクです。詐欺などに引っかかった人がダメ元で名簿制作者を訴えるリスクはありますけど。
メディアの人々や世間が発見したのは短歌文化の体系ではない。日本古来の伝統文化が現代に再発見されたのでは決してない。言葉をフレーズ化してエモいコンテンツとして流通させる目新しいツールとして現代定型が創出された。短歌ブームにおける短歌とはユーザーにとってとびきり新しい、珍しい、新発見された便利アプリである。だからSNSと相性が良い、というか短歌自体がSNS性を発揮した。
黒瀬珂瀾「お茶を飲んでいる話」
年間総評「短歌2022年の記憶 書き留めておきたいこと」で黒瀬珂瀾さんは『アイドル歌会公式歌集Ⅰ』(短歌研究社)を取り上げておられます。「この企画は聴衆の前でアイドルが自作の短歌を披露し、互いに批評したりする公開歌会的なファンサイベント」だとあります。
年間総評には「今は空前の短歌ブームだ」というはしゃいだ言葉が並んでいますがまーしょうもない浮かれっぷりです。ブームは必ず終わる。ブームが起こっている時は絶対に終わった時を覚悟しなければならない。そうしないとブームとともに舞台から去ることになる。
短歌ブームは間違いなく近い将来終わる。それと同時にはしゃいでいた人たちはすーっといなくなるでしょうね。芸能界といっしょでいつの間にか姿が見えなくなる。ブームで10年20年活動できるほどどのジャンルも甘くない。
アイドル業界は純然たる経済原則の世界であり、幻想というコンテンツを販売する利潤追求社会である。幻想という一点でアイドルと短歌が接続する。アイドルだけではない。エモさ、スピード感、ポータブル性、簡便さ、それらの接点により様々な経済原則と短歌が結びつく。短歌というコンテンツは他コンテンツの代替物として発見されてゆく。俳句ほど玄人っぽくない。現代詩ほど難しくない。そして、小説ほど読むのに時間も労力もかからない。(中略)そんな断片的な情報に消費者が偏重する時代、ファスト的な感情コンテンツとして短歌が活用されている、という側面は否定しきれまい。
同
必要十分な短歌ブームへの引導でありレクイエムだと思います。今の口語短歌・ニューウェーブ短歌のほとんどは短歌を「ファスト的な感情コンテンツ」として活用したものであり「ユーザーにとってとびきり新しい、珍しい、新発見された便利アプリ」に過ぎません。「短歌自体がSNS性を発揮した」というより昨今では「短歌がSNSとなった」と言っていいかと思います。これではすぐに飽きられるのは目に見えている。
口語短歌・ニューウェーブ短歌の発生は俵万智さんと穂村弘さんですがそこから現在までの変化推移を追ってゆくとどれほど口語短歌・ニューウェーブ短歌が衰弱し堕落したかがよくわかります。ほとんどの作品が親兄弟や社会に対する不満のはけ口であり無責任な放言です。短歌の形を取ったツイートと言ってもいい。
ちょっと前まで短歌は詠むのがむつかしいと思われていました。しかし元々そうではない。馬場あき子さんは「俳句より短歌を詠む方が遙かに簡単だ」とおっしゃいました。また「俳句はええカッコしいが詠むからは修練が必要だけど短歌は心情告白すればいいから簡単」という意味のこともおっしゃった。短歌ブームは多くの人が短歌は簡単だと気づいただけのこと。57577のような形式で心情告白すれば簡単に短歌が詠めてもしかするとほんのちょっとの努力で作家として社会に認められるかもしれないと夢見ている。んなものすぐに終わるに決まってる。
もちろん口語短歌の功績はあります。もう少し正確に言うといまだ定義としても実作としても曖昧なニューウェーブ短歌は別として口語短歌が短歌の新たな財産になるのは間違いありません。ただしそれは浮かれた短歌ブームとは別物。性根を据えた歌人なら表現内容によって口語と文語を使い分けるのは当たり前のことです。どうしても口語でなければならない理由などこれっぽっちもない。そう主張する歌人が絶えないのは短歌について勉強するのが面倒だから。要はそれしかできないからできることを最大限に素晴らしいと言いふらしているだけのこと。簡単な問題ばかり解いて自慢している小学生と変わらない。
作家は自分のために作品を書くのと同時に自分が関わる表現ジャンルの未来に責任を負っています。口語短歌ブームを牽引した歌人たちには重い責任がある。まあ責任など取らないでしょうけど。ただファウンダーの俵万智さんはんなこと気にせず晶子や牧水を論じ百人一首や『源氏物語』の世界にシフトしています。はなっからモノが違うんだな。
文学の世界では決定的に新しい仕事を為した人しか本質的に文学史に残らない。ファウンダーが切り拓いた世界を後追いした作家たちは消える。ファウンダーの業績が画期的ならブームは起こりますがエピゴーネンはいずれ見切られるということ。それだけのことです。
高嶋秋穂
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