八月十五日の真昼だった
終戦記念日だと知っていたが
そんなことはどうでもよかった
ぼくらは十八歲で
すでにバラバラだった
本当に離散するまでのうんざりするような時間を
微笑を浮かべてやり過ごしていた
確かなのは足元
の黒ずんだ砂が焼けるように熱く
いつものように波が荒く打ち寄せていることだった
Aは彼女といっしょに浅瀬で遊び
楽しそうに笑っていた
Mは浜に寝そべり眠っていた
遊泳禁止の立て看板はなかった
監視員もいなかった
テトラポットに波がぶつかり白い波頭が立った
どんな魔術を使っても
おまえは僕を引き留められやしない
去ろうとする者は
いずれ去ってゆく
離散する者たちは
永遠に彷徨い続ける
そして死すべき定めの者は
いずれ必ず死ぬ
超えてはならない目に見えない水の線を
軽々と超えてゆく
灰色に濁った海が少しだけ
透明に輝く
だけどうつ伏せに海面に浮かんで下を見ても
底は見えない
深い、深い
ぼくのすべての可能性
ぼくは全能の人
塩辛い水を呑んで石のように沈んでゆく
そうすれば恐らく天
高く舞い上がることができる
この浜で忘れられぬ記念碑となり垂直に立つ
海が身体を揺らす
荒れ狂って渦巻く
喉を締めつける
ぼくは抵抗しない
ちゃぷちゃぷという水の音を聞いている
「おい、おーい!」
豆粒のようになったMが浜辺に立って叫んでいる
Aと彼女が棒立ちになってぼくを見つめている
彼らといっしょだからぼくは孤独ではないのか
いやそうじゃないと一瞬で否定する
ぼくは水を吐き出し浜に向かって泳ぐ
浅瀬で膝に両手をつき激しく息をする
口から透明な唾液を垂らす
「溺れかかってるように見えたぜ」
Mはそう言って浜辺に寝転んだ
Aと彼女は曖昧に笑って二人の世界に戻っていった
十八歲、ぼくは一人で旅立った
祖父は漁師で日本の領土
が今よりずっと広かったので
遠い東アジアの海まで漁に出かけていった
だからぼくは大学の卒業旅行に船旅を選んだ
わかっている
ぼくの選択はいつだって間違っている
深夜の埠頭は明るい光で照らし出され
巨大な客船が何艘も停泊していた
祖父の時代の人のようにマラッカ海峡
からベンガル湾に出て
アラビア海を抜けてゆくルートだ
「わたくしどもの素晴らしい船へようこそ
お客様は三等客室ですね」
燕尾服を着たコンシェルジェは乗船券も
パスポートもろくに見なかった
船底の狭い個室で窓からすぐそこに暗い海面が見えた
朝になって気づいた
この船はぼくが予約した船じゃない
巨大客船は一つの社会だ
しかしこの船には秩序がない
ダイニングルームは一つだけで
白いテーブルクロスが掛けられた席に
着飾った男女やぼくのように
ジーンズに着古したセーターの若い男女がぽつり
ぽつりと座っている
その間を子どもたちが嬌声を上げて走り回る
まだ朝なのに舞台では四重奏団がリハーサルしている
耳障りな音を立てる
ぼくは船の中を走り回る
大きな螺旋階段のある吹き抜けの時計は十二時を指していた
バーの掛け時計は六時
「ごゆっくりお過ごしください」
正しい時間をたずねるとバーテンダーは柔和な笑顔で答えた
「記念写真はいかがですか」
三脚の上に古めかしい四角のカメラが乗っていた
サロンには額に入った写真が飾られていたが人が写っていない
「まあなんて美しい
わたしもこんなふうに撮ってもらえるかしら」
写真を見て着飾った女性が写真屋に微笑んだ
「どうかリラックスしてください ここでは何も起きませんから」
船員を呼びとめると必ずそう答える
ぼくはコンシェルジェを探した
「船員以外立ち入り禁止」の札がかかったチェーンをまたぎ
長い長い廊下を奥に進んでいった
その部屋から声が聞こえた
「暗いのか もっと暗いのか これが魂の暗夜なのか
もっと深い場所を探らねばならないのか
それともここがどん底なのか」
それはぼくの
ぼくらの世代の葬送曲だった
耳を離して部屋のプレートを見た
金色の金属板にMonsieur Malpighiと刻まれていた
ドアは簡単に開いた
中には誰もいなかった
ぼくはサロンで毎日行われるクロッケー遊びにも
猫と鼠のゲームにも飽き飽きしていた
「首を切っておしまい! 首を切っておしまい!」
チェスの駒になった子どもたちが
サロンの絨毯の上の大きなチェス盤を進むたびに
お決まりのセリフを甲高い声で叫ぶ
船員たちが大声で笑う
デッキの上は静かだ
しかしそこから見える海の上の雲が
羊の群れに見えることも
巨人の姿だと思うことも
もうなくなってしまった
だから「ドミノをしませんか」
その青年に誘われたとき
ぼくは救われたと思った
色の黒い刺すような目つきの青年だった
しかし態度も言葉遣いもおだやかだった
「賭けるものがないんですが」
「ぼくもです では時間を賭けませんか」
ぼくらは狭い船室で
食事を終えたダイニングテーブルや
バーのカウンターでドミノをして時間を過ごした
ぼくは三十歲かもしれなかった
四十歲 五十歲になっているのかもしれない
ときおり乗客たちがぼくらを取り巻いてドミノを見つめた
「ファイブアップをしませんか」と誘っても
誰もが首を振る
ルールがわからないのだ
ドミノの札が木の枝や根のように伸びてゆく
のを楽しそうに眺めている
ぼくは日が沈まなくなったことに気づいていた
船室にいてもダイニングやサロンにいても
窓からいつも明るい光が差し込んでいる
「ここはぼくの故郷に似ています
海も砂漠も明るい」
「そうですね 海が砂漠だということを
多くの人は知らない」
不安を口にするかわりにぼくは手札を繋げた
電話も電信もできなくなったと言われていたが
サロンの壁にはときおり手書きの壁新聞が貼られる
たいていは遠い場所で
戦争が始まったといったビッグニュース
「闇が戻ってくれば目的地はもうすぐそこです」
青年は途中下船するのだと言っていた
「あなたは神を見たことがありますか」
唐突に聞いた
ぼくは答えたくなかった
神は目を閉じ口にはマスクのようなものを着けていた
しかし目は刳り抜かれた穴のようだった
だからそれは動くのかもしれない
「あなたの番ですよ」という青年の声が
今度はあなたの土地ですよと聞こえた
起こるとだろうと恐れていることは
必ず起こるのですと響いた
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