五つの顔を保つ不思議な彼女。僕は画家でたまたま個展を見に来た彼女に魅せられる。彼女の五つの顔はそれぞれ違う世界に向けられているから、違う世界を保っているから、僕もまた自分の中に違う自分を持っているから。しかし彼女の五つの顔は、五つの世界は消え去って・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもあるラモーナ・ツァラヌによる連作短編小説!
by 金魚屋編集部
文化センターのギャラリーでの個展期間中、何度も彼女の姿を見かけた。きっと職場がギャラリーの近くにあるのだろう。その独特な顔のせいで、彼女は何をしても目立ってしまう。
ギャラリーでほんの少し話しただけなのに僕は激しく彼女に魅せられていた。我慢できなくなり、個展が終わってからしばらくしてギャラリーの斜向かいにあるカフェの片隅に座った。彼女が現れるのをじっと待った。彼女は来た! 急いでスケッチブックを広げて鉛筆を走らせた。彼女を描きたかった。五つの顔、というより五つの世界に向けられたその顔を、不思議な微笑みを描きたかった。
文化センターは繁華街の大きな道路に面しており、様々なお店が建ち並んでいた。普段の彼女は顔二つだけだ。しかし花屋の前で立ち止まると五つの顔すべてが現れて棚に並んだ花を嬉しそうに見ている。道路を救急車が通るとやはり五つの顔が現れて、心配そうに見る。どうやら何か特別なことを目にした時だけすべての顔が現れるようだ。
ギャラリーで僕以外の作家の展覧会が開かれても、必ずと言っていいほど彼女は観覧しに来た。絵画好きのようだ。カフェの片隅に座った僕には気づかずギャラリーへの階段を昇ってゆく。そんな時は歩道を歩いている時よりずっと彼女の細かな表情を観察することができた。ギャラリーから出て来ると、彼女のすべての顔が表に出て絵の感想を話し合っていた。
彼女が仕事を終える平日の夕方にカフェに通ったが、彼女を描くのはそう簡単ではないことにすぐに気づいた。彼女の顔は二次元の紙におさまるのを拒否していた。五つの顔が見ている世界を捉えるためには、どうにかして二次元の絵の枠を超越しなければならない。できれば五次元の絵にしたかった。しかし「五次元の絵」と考えるだけで頭が真っ白になってしまう。そんな絵を、どうやって描いたらいいのだろう。
スケッチし続けるうちに、僕は彼女がどんな生活を送っているのか想像するようになった。いつも一人だから独身だろう。明るい性格のようなので、人付き合いは上手そうだ。友達もたくさんいるだろう。姿勢やキビキビとした身体の動きから仕事ができる方なんじゃないかな。聡明で、いい意味で自信がある人のように見えた。
アトリエに帰り、スケッチを元に僕は色々なシチュエーションで彼女の油絵を描くようになった。最初の方に描いた油絵は、スケッチから起こした花を見ている彼女や人混みの中を歩いている彼女の姿だった。しかし僕の中で彼女の存在が大きくなるにつれ絵の内容も変わってきた。空想で描いた海を見ている彼女の絵はまだおとなしい方だった。僕は彼女が宇宙の元素を集めて新しい世界を作ろうとしている様子や、地上にいながら星まで手を伸ばしている姿も抽象的に描いていった。
気がつくと何枚もの新作が生まれていた。僕の中にいる〝彼〟も五つの顔を持つ彼女を気に入っているらしく、寝ている間に〝彼〟が描いた作品も増えていた。次の個展を開いてもいいくらいの作品数まであともう少しだった。
彼女の顔から微笑みが消えている日もあった。仕事のストレスなのだろうか。それとも家族関係や恋で悩みを抱えているのかな。そんな時は彼女のもう一つの顔が別の顔を一生懸命励ましていた。二つの顔が視線を落として黙っていることもあった。僕は彼女の落ち込んだ様子が心配だった。気が気でなかった。話しを聞いてあげたい、友だちになりたい、もっと親しくなりたいと強く思った。
「こんにちは。『バベルの塔』の画家さんですよね」
思いがけず彼女が目の前に立っていた。カフェが混んでいて僕はいつもの隅っこではなく道路に近い席に座っていた。考えごとをしていて声をかけられるまで彼女に気づかなかった。
僕はスケッチブックをテーブルに置くとあわてて立ち上がった。
「ええそうです、覚えていてくださったんですね。以前、個展を見に来てくださってありがとうございました」
「覚えていますよ、強く印象に残っていますから」
彼女はあの微笑みを僕に向けた。
「新しい作品に取り組んでいるんですか?」
「ええ、いつも何か作っています。次の展示もあのギャラリーでやりますから、よかったら見に来てください」
僕はとっさにまた文化センターのギャラリーで個展を開くことを決めた。
「はい、ぜひ見に行きます」
彼女の姿が遠ざかっても僕の心臓の高鳴りはおさまらなかった。ハッキリ彼女に恋していると思った。僕のことを覚えていてくれたのだから、友だちになるまであと少しだ。次の個展で彼女が会場に現れたらもっと積極的に話してみよう。
僕がカフェの椅子に座っているのに気づくと彼女は軽く会釈してくれるようになった。しかし話しかけてくることはなかった。いつもスケッチブックを手にしていたから、仕事をしているんだと思ったかのかもしれない。ただそれでもよかった。
彼女は僕が恋する女性であり画題でもあった。恋する僕は彼女と楽しく話し、顔を見合わせ笑い合うシーンを夢見た。手をつないで海辺を歩いていた。彼女にキスしたかった。でもキスするとしたら、彼女のどの顔にすればいいんだろう。一つの顔でいいのか、五つの顔すべてにキスして、あなたのすべてを愛していると示した方がいいのだろうか。
しかし彼女の五つの顔は同じ性格ではないだろう。入れ替わり立ち替わり現れて会話していたのだからそれぞれ違うはずだ。僕は彼女の顔すべてを平等に愛せるだろうか。また顔ごとに性格が違うのだとしたら、それはどんな違いなのだろう。そこまでは想像することができなかった。
彼女の五つの顔は、それぞれ別の世界に繋がっている扉のように思われた。彼女と親しくなり愛し合うようになったら僕にも扉の向こうの世界が見えるのだろうか。僕は彼女と一体になり、五つの世界の交差点に立つ自分を想像してみた。五つの世界の様々な風景や物語が渦巻いている。わくわくするのと同時に鳥肌が立つような恐ろしい経験でもあるような気がした。僕はあまりにも広く複雑な世界に圧倒されてしまうのではなかろうか。しかしそんな経験をしてみたい!
五つの頭の彼女の存在は、今まで生きていて当たり前だと思っていたすべてのものに対する疑問符のようだった。彼女との接点は遠くから目を合わせて会釈するくらいだったが、今はその方がいい。想像を膨らますと次々に絵が生まれた。彼女と親しくなり愛し合うようになればそれが確かなものに置き換えられ、また新たな絵が生まれて来るだろう。
彼女の姿が消えた! もう十日も姿が見えない。用事があって家に帰るルートを変えたのか風邪でも引いたのか、それまでも一日二日姿を見ないことはあった。しかし十日も現れないことは一度もなかった。転職して仕事場が変わったのだろうか。何らかの緊急事態が起きて実家にでも帰ってしまったのか。僕は思い惑った。
彼女の絵を描きたいという思いから、今は親密にならない方がいいと連絡先を聞かなかったことを心底後悔した。文化センターのギャラリーで開催する次の展覧会はもう期日が決まっていた。ポスターも貼られていた。彼女もそれを見ただろう。彼女は展覧会に来てくれないのだろうか。彼女が来なければ展覧会を開く意味がなくなってしまう。
僕はカフェに通い続けた。スケッチブックを開いたままにしていたが描く対象がない。それでも描きたい。彼女を描きたい。気づくと鉛筆が無意味な線や形を白い紙の上に描いていた。
〝無には形がないから鉛筆は役に立たないぜ。どうしても無を描きたいなら、色で描きなよ〟
僕は飛び上がるほど驚いた。〝彼〟の声だ! 目覚めている時に〝彼〟の声が聞こえたことなんてこれまで一度もなかった。僕は自分の内部を探った。身体の奥に、心の奥底にいる〝彼〟を探した。ただ声はそれきり聞こえなかった。僕は大きく深呼吸した。
「しっかりしなきゃ」
僕は呟いた。もしかして〝彼〟に自分の意識を、身体を乗っ取られるんじゃないかと考えて不安になった。しかしすぐにそんなことは起きないだろうと思った。
〝彼〟はこの世界を心から嫌っていた。それを僕はひしひしと感じていた。〝彼〟が現れるのは僕を通して絵を描く時だけだ。僕は〝彼〟と共存していたが、〝彼〟は危険な人だ。この世界に出て来たら何が起こるか分からない。絵を描く時以外はいつまでも僕の中で眠っていた方がいい。
二週間以上経って、ようやく彼女の姿を見つけた。
最初彼女だとは気づかなかった。彼女の姿は歩道を歩く人たちの中にまぎれていた。僕は彼女の顔を見た。愕然とした。
顔が一つしかない! それにあの世界を肯定するような微笑みが消えていた!
僕は彼女の顔をじっと見た。表に出ている一つの顔が、見たことのない苦しそうな表情を浮かべていた。僕はもう一つの顔を探した。黒い布に覆われて、小さくなって後ろを向いていた。ほかの顔は探しても見つからなかった。
僕はカフェの椅子から立ち上がった。急いで彼女を追った。近づくと残り三つの顔が灰色のスカーフで覆われているのが見えた。全身に衝撃が走った。薄いスカーフを透かして、彼女の三つの顔が抉られたようになくなっていた!
思わず彼女の肩をつかんで振り向かせた。
「何をした、何があったんだ!」
乱暴な言葉が口から溢れた。ハッとした。僕の声ではなかった。
彼女は驚いた顔で僕を見た。目の中で感情が渦巻いた。嬉しさ、悲しさ、そして深い後悔が彼女の目の中に次々と浮かび、グルグルと渦巻いた。その万華鏡のような感情の渦に僕は魅せられた。「これを描きたい」という衝動が心と身体の奥底から湧きあがった。それは僕という存在を塗り替えてゆくような強い衝動だった。
「次の個展のポスター、見ました。もうすぐですね。素晴らしい絵を拝見できるのを楽しみにしています」
いきなり肩をつかまれたのに、何事もなかったかのように彼女が静かな声で言った。
僕は立ち尽くした。動こうと思っても動けなかった。身体を動かせなかった。彼女の後ろ姿が人混みの中に消えてゆくのを見送った。
* * * * * * * * *
できればこの世界に浮上したくなかった。社会人としての生き方をお前に任せ、俺はただ絵を描くことに没頭する。俺たちはそういう役割分担だったんだ。
しかしそれはもう限界のようだ。
この世界には俺たちが理解できないことがたくさんある。だけどお前はその前で立ち止まってしまう。決してその先にまで行けない、行こうとしない。
もちろん俺だって先まで行ける自信があるわけじゃない。でもこの世界に謎を残して立ち止まってしまうと俺たちは生き続けられない。二人同時に死んでしまうんだ。だから俺がお前に代わって生きて絵を描くことにする。お前は俺の無意識の底にある温かい部屋で眠ればいい。
あの女性に出会えたのはお前のおかげだ。感謝するよ。人の警戒心を解くお前の明るい性格がなければ彼女に近づけなかっただろう。別々の世界に向けられた五つの顔を持つ女性って、なんて面白い画題なんだろう!
お前も気づいたように二次元のキャンバスに彼女の顔を表現するのは難しい。彼女の本質を描くためには二次元の絵の世界を超越しなければならない。五次元の絵にしなくちゃならないんだ。俺は全身全霊でそれに取り組むことにした。
遠近法はもちろんトロンプルイユ、シュールレアリストたちが使う技法など、ありとあらゆる方法で俺は彼女を描いた。それなりにいい作品になったが、まだ彼女の本質を描き切ったという実感はなかった。彼女の存在が意味する現実を正確に捉えられなかったんだ。
彼女についての情報がぜんぜん足りない。外見を捉えることはできるけど、理想の絵にするためにはもっと彼女の内面を知らなければならない。だからお前にもっと彼女と親しくなってもらおうと思った。親友や恋人になって彼女の心をつかんで俺に教えて欲しかった。でもお前の前に、二つの顔の一つを喪に服したように黒い布で覆った彼女が現れた。残り三つの顔が抉られたようになくなっていた。
あの瞬間、すべてが変わってしまったんだ!
俺に痛みという感覚はない。痛いという感情もない。でもあの時、一つの顔だけ残してほかの顔を隠され、削り取られた彼女を見て、痛みというものがどういうものなのかハッキリ分かった。俺の中から怒りの感情がふつふつと湧き上がった。俺は、俺たちがいつまでもこの世界で都合よく変形させられ、歪められて生きていくわけにはいかないという怒りの感情とともに目覚めた。
覚えてるかい? 子どもの頃、いっしょにガラス瓶で育てられた猫の映像を見ただろ。子猫が四角い瓶に入れられ、餌を与えられて育ってゆく。やがて猫は四角いガラス瓶の形になる。餌を食べて生きてはいるが身動き取れず歩けもしない。ハート型のスイカを育てる農家と同じで、趣味でそんな残酷なことをする人間がいるんだ。
あの頃、俺とお前はすでに別の存在だったから、あのガラス瓶の中の猫がまるで俺たちみたいに思えたよね。俺たちは四角い瓶の中に閉じ込められている。俺とお前の両方が同時に外に現れることはできないからね。だから俺はお前の心の底に住むことにした。それでいいと思っていた。この世界は管理しやすくて便利な四角い箱を好むことをすでに知っていたんだ。
彼女はだから俺たちの希望だった。五つの顔を同時に世界に向けている奇跡の女性だ! でも彼女から一つの顔を除いて四つの顔が失われた。その理由は知らない。だけどあの瞬間、俺たちの希望は絶望に変わった。彼女が希望であり絶望でもあることがハッキリわかった。絶望を抱えて生きて来た俺が、世の中の明るい面ばかり追いかけてきたお前に代わるのは当然だろ?
彼女は展覧会に来てくれたよ。今は一つの顔しかない彼女が。彼女の姿を見てドキリとした。心が痛んだよ。彼女が四つの顔を失ったことで、俺がこの世に現れることになったんだから。
彼女は作品を見ながら泣いていた。今回の展覧会の絵は難解だ。普通の絵画好きには何が何だかわからない抽象画になった。でも彼女には伝わった。色々な角度から見た彼女自身が描かれているんだから当然だよね。しかも絵には彼女が失った世界が表現されているんだから。
帰る時、挨拶してくれたよ。ハンカチで涙を抑えてたな。
「ありがとうございました」
彼女はかろうじて言った。
「いいえ」
ぶっきらぼうに俺は答えた。優しい言葉を言うことなんてできない。それは全部お前の領域だから。ただ俺たちと彼女は理解し合っていた。通じ合っていた。
彼女は「私・・・、元に戻れるはずです。時間はかかるかもしれないけど、きっと元通りに戻ります。今日ここで決めました」と言った。
「戻れるんですか?」
俺は冷たく答えた。
俺たちと彼女は合わせ鏡なんだ。彼女が四つの世界を失って一つの顔になったから俺がこの世に現れた。彼女の絶望が続く限り俺はこの世界の人だ。だけど俺はなぜか「うまくいくといいですね」と言っていた。
彼女が五つの顔を取り戻したら、また俺がお前の心の奥底に住み、お前がこの世界に現れるんだろうか。
それはわからない。
ただ、この世界が大切なものを壊してしまうと分かった今、俺自身は元に戻れる気がしない。
だから絵の中で世界に対して絶望をぶつけつづけていくよ。絶望を返してやる。何かが変わるまで。突破口が見つかるまで。
(後編 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■