妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
「3卓さん、ミックスサンドとアイスコーヒーです」
あいよ、と答える声が一拍遅れたのは見慣れない光景のせいだ。オーダーを伝えてくれたのはマキでもリッちゃんでもなくトダ。ミントグリーンの髪の毛を、年配のお客さんたちがチラチラ窺っている。
両親が来なくなって以来、人員の補強について検討はしていたが、そもそもどの程度の期間か分からないし、新しく雇うとなれば当然人件費もかかる。人手が必要なのはマキが働きに出ている週三日。頑張れば何とかならない話でもないか、と踏ん切りがつかない時に別件で連絡をくれたのがトダ。その辺り、バーのマスターなら顔が広いだろうと打診してみると、返ってきた答えは「それって、俺じゃダメかな」という想定外のものだった。
「え? お前が?」
そう驚いた俺に「実はさ……」と声を潜めるトダ。聞けばここ最近店の売り上げが少々落ちているらしい。当然俺も声のトーンを落とした。
「おい、うちは時給、そんなに払えないぞ」
案外本気の忠告だったが「そこまで切羽詰まってないよ」と笑われてしまった。
「え、そうなの?」
「そこまでグズじゃないよ。でもさ、業態変更の可能性もあるし、何があるか分かんないじゃん?」
「え? あの店、喫茶店にするのか?」
「だから落ち着けって。今そこまで決めてないけど、何かの時のために色々経験したいなとは思ってるよ」
薄っすらヤブヘビな感じだったが、とりあえずは丸く収まった。それが昨日の夕方。今日からリッちゃんは学校なので、本当にギリギリのタイミングだった。ただ母親の検査の結果については急遽二日間延期。伝えてくれた兄貴曰く、そのせいで父親は更に落ち込んでいるという。
「何? 具合悪そうなの?」
「いや、そういうんじゃないな。仕事終わった後に様子見てきたんだけどさ、部屋の電気も点けずにぼんやりテレビ見てた」
「え、お袋は?」
「外出中」
「どこに?」
「今日は夢の国」
声にならない声が出て、スマホを弄っていたマキが振り返る。大丈夫、と手で示し「どういうこと?」と尋ねてみた。
「いや、そのまんま。今日は友達何人かと朝からディズニーランド」
「今日はって……」
「ちなみに一昨日は中華街。これも友達と一緒だって」
「あのさ、身体の方は大丈夫なの?」
フフフと兄貴が笑う。何だよ、と突っかかると「やっぱりそう思うよなあ」と受け止められた。
「本人曰くだけど、自覚症状もないし仕事もないからヒマなんだと」
「無理してんのかな?」
「いや、逆にバリバリ自覚症状あったら即入院だろ」
それは一理ある。そして父親はそんな状況に腹を立てるでもなく、ただただ落ち込んでいるらしい。
「確かに今の段階は検査受けただけなんだよ。こういう時、男はあかんなあ」
そうか? と納得していないトーンで返したが、マキの背中を見ていると無理なく納得できた。俺も親父の立場なら、きっとあかん状態になるだろう。
「検査の結果出たら、すぐ知らせるからさ」
「うん、頼むわ」
電話を切った後、何か訊かれるかと思ったが、マキは何も言わずにスマホの画面を眺めていた。
「パパちゃん、のどかわいたの」
カウンターの裏側、俺の隣でちょこんと椅子に座った永子が訴える。いつもならすぐに叶えてやるところだが、俺は「もうちょっと我慢だなあ」と退けた。
別に心を鬼にするまでもない。今日はこの訴えがハイペース。多分喉は渇いていない。髪の毛が変な色のオジサンがパパちゃんと妙に親しげなのが理解不能でストレスなのでは、と睨んでいる。正月の時はコインマジックに夢中だったはずなのに、あいつが若者ぶってミントグリーンなんかにするからだ。
えええ、と不満を隠さない永子に「あのオジサン、パパちゃんのお友達だよ」と言い聞かすが、ふくれっ面は直らない。こんな時、母親ならもっと効果的なアプローチができるのだろうか。
「6卓さん、コーヒーお代わりだって」
はいよ、と応える代わりに「あちらのお嬢さんにコインマジック」と注文を出す。
「え?」
「多分正月のこと忘れてるか、その髪のせいで別人扱い。仲良くしてくれよ」
頷きと視線だけでトダは「任せとけ」と伝えてきた。頼もしい。ならばと淹れた6卓さんのコーヒーは俺が自分で運んだ。あいつは今、重要な任務を背負っている……というのはあながち大袈裟ではない。
今回人員の補強に消極的だった理由のひとつに永子の存在がある。仕事中、俺は案外忙しい。たとえば永子から一瞬目を離すだけでなく、トイレ等で二階に上がることも、近くのコンビニへ簡単な買い物に行くこともある。贅沢を言えば、食事の時くらいはゆっくりしたい。そんな時に安心して永子と二人きりにできる人、という条件を満たすのは結局知人・友人だけ、即ち募集しても意味がないので、なかなか踏ん切りがつかなかった。
だからこそトダの申し出は本当にありがたかったが、まさか永子があんな感じになるとは。まあ最悪懐かなくても業務には支障ないか、と自分に言い聞かせながらカウンターに戻ると、我が娘はコインを自在に操るトダの掌に釘付けになっていた。結果オーライだがその変わり身、親としては少々心配だ。どうした永子、と声をかけても返事はナシ。身を乗り出してマジックに夢中だ。案外チョロいな、と愚痴った俺にトダがにっこり微笑む。
「こんな感じでいいか?」
あいよ、と答えて俺はエプロンを外した。これで心置きなくトイレに行ける。
永子の感覚とは違うかもしれないが、中年男性にとって二日間なんてあっという間。母親の検査結果が出る日はすぐに来た。兄貴によれば朝から病院に行くらしいので、遅くとも昼前には連絡できるとのこと。
今日もオープンからトダが来る。前回、永子の信頼を取り戻したので、特別ボーナスとして七時の出勤時間を三十分遅らせた。店の仕事を手伝うに当たって、一番ツラいことは早起きだと言っていたので喜んでいると思う。
ちなみにあいつの通勤時間は三十分弱、通勤方法は電動自転車。ルートの大半が隅田川沿いらしい。通勤ラッシュとは無縁だと言っていたが、悪天候の日はどうする気だろう。無論そんなことは俺から持ち出さない。
「おはようございます!」
開店五分前にやってきたトダが、リュックを下ろしてエプロンを手に取ると早速永子が現れた。
「お、永子ちゃん、おはよう」
「うん、おはよう。ねえ、またやってくれる?」
まだコインマジックは飽きられていないようだ。俺はあえて何も言わずトダのあしらい方をチェックする。
「じゃあさ、この中からコイン選んでくれる?」
そう言ってトダはポケットからカラフルなコインを数枚取り出し、永子の手の上に置いた。ちゃんと準備してきた辺り、いかにもあいつらしい。想定外のサプライズに我が娘は「すごーい」と目を輝かして、座っていた椅子の上にコインを一枚一枚並べ始めた。やっぱりチョロいもんだ。
「ちょっとケチャップ貸してえ」
歌うように用件を伝えながら降りてきたマキが、エプロン姿のトダと目が合い「あっ」と声をあげた。
「ごめんなさい、私てっきり……」
「いえ、そんな全然……」
苦笑いの大人二人に「おはようして、おはよう」と我が娘が指導する。そう、挨拶は大切だ。そんな想いで頭を撫でた俺の手を、永子は小刻みに体を揺らして振り払った。やはりこの先、イヤイヤ期が待ち構えているのだろうか。
ケチャップを持って二階へ上がったマキと入れ違いに、制服姿のリッちゃんが降りてくる。
「あ、おはようございます」
「おはよう。あ、そうだ」
「?」
「このお店が載っている雑誌ってまだ出てないよね」
今月中には出るはず、という俺の言葉にリッちゃんが頷く。「何で?」と尋ねるとトダは声を潜めた。
「昨日帰る時も、今来た時も、スマホで店を撮ってる人がいたんだよね。これ、あるある?」
「いや、そんな事、今までないなあ」
「雑誌を見て来たなら分かるんだけど、発売まだなら理由は謎かあ」
ふと時計を見ると七時半。オープンだ。慌ててカーテンとブラインドを開ける。今朝並んでいるのは一人。週に一、二度来てくれる、背の高い中年男性だ。ドアを開けて「おはようございます」と声をかけると笑顔で頭を下げてくれた。オーダーはいつものモーニングセット。カウンター裏に戻ったタイミングで「行ってきます」とリッちゃんが店を出た。
「さっきの件さ、リッちゃんと、あと奥さんも何となくは気にしといた方がいいかもね」
新たな不安が発生したが、トダの存在で相殺してプラマイゼロ。そんなことを考えながら、俺は本日一枚目のトーストを焼き始めた。
朝の混雑が引いてからランチタイムの準備に入るまでの一時間弱に、永子をトダに任せて銀行へ出かけた。釣銭用の小銭が足りないので両替しなければ。キャッシュレス対応のおかげで頻度は減ったが行かないわけにはいかない。うちのお客さんはまだまだ現金払いが多い。
二万円分の小銭を受け取り銀行を出たところで、ポケットのスマホが震えた。確認すると兄貴から。遂に検査の結果だ。
「もしもし」
まだ病院にいるのだろうか、背後にうっすら女性のアナウンスが流れている。
「おお、今いいか?」
「うん。どうだった?」
「……がん、見つかっちゃったよ」
(第42回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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